憂邦烈士連合会@ソロプレイ

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アニメは見るな

 富野由悠季宮崎駿がアニメを作りたいやつはアニメを見るな、と言っているのは結局コンプレックスの裏返しだ。


 富野は明らかに実写映画にコンプレックスがあり、何かにつけ映画映画と何か映画が至上の創作のように語るし、駿も同様で、彼はもともとアニメーターになりたかったわけじゃないのだ。

 

 本当はアニメをつくりたかった手塚が漫画でアニメ的表現を多用したのと同じく、駿はアニメで実写映画的なことをしたがるのだ。誇張と嘘のディズニーアニメの系譜に、駿のアニメは存在しない。実写映画の焼き直しとしてのアニメだ。


 手塚がリミテッドアニメなんて手法を多用したのは、漫画家だったからだろうし、手塚はアニメを作りたかったのは確かだが、自分の属する漫画と言うジャンルにコンプレックスはなかったのだろう。

 だから漫画的な手法を逆にアニメに持ち込むのだ(手塚の場合、免許は持っていたので、医者にもなれた可能性があったというのも大きいだろう。富野・宮崎のように、「自分にはこれしかない」という執着がない)。


 富野と宮崎は明らかにアニメ(自分の土俵)を見下している節がある。

 

 一方、藤子不二雄は漫画好きこそ漫画が上手になると言っているし、芦田豊雄もアニメ好きこそいいアニメを作れるみたいなことを言っているが、彼らはコンプレックスがないのだ。


 最初から漫画やアニメーターを志望していて、自分の携わるエンタメが一番だと思っているのだ。


 高橋留美子も、経験なんかなくても漫画は描ける。頭の中だけで描けるみたいなことを言っており、現実から漫画を生み出すという行為を特別視しない(富野・宮崎は現実を見ろという)。

 

 藤子不二雄は富野や宮崎と異なり、漫画はこうあるべき論をほとんど言っていない。言っていても、善悪、よしあしの話ではなく、より面白い漫画を生み出すには? という論点が多い。漫画にはこれは駄目、あれは駄目、みたいなことはあまり言わない。
 自信があるからだろう。自分のやり方と漫画という世界に。

 

 高橋も、描けないならそれはあなたが凡人だからというとんでもない切って捨て方で、べき論はあまり語っていない。

 

 宮崎や富野はべき論が多く、これは不本意な世界で著名になったために、自分を正当化しようとしているのだろう。

宮迫

 彼のムーブを見ていると、絶対に自分が悪くないと思っている。たぶん、人生で謝ったこと(形式的ではない謝罪)はないんだろうな、と思う。

 最初は自己保身のためだけに謝っていると思っていた。

 

 しかし、アメトークの解散番組とか見るに、こいつはサイコパスなんじゃないかと思えてきた。

 

 本人はたぶん本気で謝っているつもりな上、しかし、自分に非があることが理解できていない。だから何度謝罪しても、ズレていて、ひたすら反感を買うのだ。

 

 が、これが彼は理解できない。

 絶対に目が笑わないのも昔から怖かったし。あの目は普通の人の目じゃない。

 

 反社との付き合いの件で、亮との差は、結局、謝罪の在り方にすぎない。亮は少なくとも、小心者ゆえか本気で謝っているように見えた。

 彼が干されて仕事をなくして路頭に迷うことを心配していた(全員そうだろう)としても、それゆえに狼狽し、後悔しているように見えた。

 

 だから見ている人は彼が可哀想に思え、許すことにしたのだ。彼は精神的に疲弊し、十分罰を受けたと視聴者は思った。

 

 一方、いつまでも平気な顔(自分が悪いと思っていないのだから当たり前だが)で形式的な謝罪を繰り返し、少しも狼狽しない宮迫は、何ら罰を受けていないように見える。TVから干されても、youtubeでやっていけるとのたまうから、経済的な罰も受けていないように見える。

 

 だから許されない。

 

 しかし宮迫は理解できない。自分に非はないけど、謝った。謝ったのになんで世間は自分を許さないのだろう? と。

 

 罰を受けていないからだ。

 

 youtubeも一週間で再開だそうだ。本当に思慮が足りないなんだな、と思う。長く謹慎すれば、罰が成立するのに。

英語は表現が豊かだと思う

 日本人の多くは、日本語は表現豊かで英語はかっちりしているからビジネスに向いているみたいなことを言うが、違うと思う。

 

 そもそも、99%の日本人は日本語しか喋れないからそう思うのだ。英語のネイティヴも同じことを思っている。彼らにとって英語は表現豊かな情緒的な言語である。だから、論文なんかも、ネイティヴが書くと、情緒性が増してしまい、却ってわかりにくい。ノン・ネイティヴは文法の学習から入り、日記や作詩のためではなく、純粋な実用品としてその言語を使うから、論理的に見えるし、論文なんかも論理的に書く。

 

 日本語がビジネスに向かないとかいうのも、日本人同士でやるからで、この場合、英語を使おうが同じで、背景が曖昧なぁなぁの日本文化である以上、何語を使っても同じだ。
だから、日本語を使って、日本人と中国人が商談する場合は、曖昧性は減る。

 

 さらに英語が論理的だから世界共通語になったという認識も間違いで、単純にイギリスが世界を支配していたからに過ぎない。言語はだいたい、その担い手が支配した地域に広がる。日本語もかつては朝鮮、台湾、南洋で使用された。

 

 論理的だからではなく、日本人が支配者だったからだ。だから日本人がいなくなったあとも、憶えている人はいて、戦後も使用されたが、これも日本語が優れているからではなく、部族間での共通語がなかったため、誰でも知っている日本語を使ったに過ぎない。
 現状、英語も同じことだ。

 

 個人的には、英語の方がの日本語よりも表現に秀でているように思う。イギリスが世界を支配した関係上、世界中の言語を逆に取り込んだ面もあるので、語彙がめちゃくちゃ豊富だし、日本語の慣用句もかなり英語由来のものが多い(豚に真珠など)。
 確かに語順の制約は大きいが、表現を規制するのはこれくらいで、感情や態度を表す語句も日本語よりも多い。couldとかmayとかwouldとか日本語では表現できない。

 

 こういうと日本語は、ね、とか、よ、とか、だわ、だのぉとか語尾が豊富だ! 表現力がある! という人がいるが、別にそんなの本質的な単語ではないし、英語も別にできるわけだ。一般的でないだけで。

 

 敬語に関しても、むしろ、英語の敬語は日本語のように単語の入れ替え(言う→おっしゃる)ではなく、文そのものを組み替えたりする必要があり、より難しく、パターンも多い。そのため、教養がある人間以外使えず、耳にする機会がないだけだ。

 

 また、単語は日本語は非常に意味の取りうる範囲が狭く、具体的な単語が多く(日本語は極端に形容詞が少ない。形容詞は抽象性の高い単語群だ)、英語よりもずっと単語は明瞭で、ちっとも曖昧ではない。英語なんか単語の意味が広すぎて、さっぱりわからない。classなんてそれだけじゃマジで何のことかわからない。
 だから英語では文が重要だ。
 その単語が使用された文脈が大事だ。

 

 オバマのChange!も日本語で言えば「変わる」という別にどうでもいい単語だが、それが言われた背景込みで意味を持つ(文脈依存)。

 

 英語にはこういう事例が多い(armorも鎧の意味も現代の兵士の武装の意味ある)が、日本語では少なく、日本語の場合、こういったときは新語がつくられるか、東国原の「どげんかせんといかん」みたいな一般的ではない方言などが使われ、既存の単語の意味が拡張され、曖昧さが増す、ということはない(たとえば、生物用語のセントラルドグマはもともと宗教用語なので転用によって、意味が増えてしまった)。

 

 一方、日本語が語彙が強く、言った言わない論争は、文脈の論争ではなく、単純に単語を言ったか言わないかの論争だ。日本語は単語の意味が狭く、具体的な定義がされていることが多いため、日本語ではこの具体性を曖昧化することが多い。
 たとえば、「等(など)」という接尾辞である。
 りんごと言えば明確なのに、りんご等といった瞬間、曖昧になる。りんごである必要性がないのだ。英語ではこれは言えない。

 

 前述のように、日本語は単語レベルでは明解である。しかし、英語とは逆に文にすると曖昧性が増す。否、曖昧性が増すように運用されている。文法上「等」のような接尾辞は必須ではないのだから、明確な文は作れるのだ。

 

 英語の小説なんかを読むと、英語の表現力にうんざりする。日本語では無理だな、と思うことが多い。ただ、語順と文字(三種類あるので)の関係で登場人物の言い回しを簡潔に変えられるのは日本語が有利で、XX saidみたいなのをいちいち入れなくてもいい。
 あと単語の意味はかなりふわっとしていて、ちゃんと文意を汲まないとわかりにくいのが英語はうざい。逆に日本語は流し読みみたいに単語を拾っても成立する。

 

 日本語の方が論理性が高いのは国名なんかでもわかる。
 たとえば、フランス、フランス人、フランス語、フランス料理。明確なうえに、フランス+〇〇で構成されており、論理的だ。
 英語は違う。
 France,French,French,Frenchである。

 

 〇〇人という表現自体にも一貫性がない。
 たとえば、アイルランド人はIrlandだからIrish、イギリス人もEnglandだからEnglish、ならアイスランド人は? Icish? 否、Icelanderである。しかも、アイスランド語はIcelandicだ。じゃあ、タイは? タイ人はThaiで国としてのタイがThailandである。本当に頭おかしいと思う。論理性のかけらもない。

パラ開会式

 ダイジェストを見た感じ、オリンピックよりは全然マシだったと思う。

 いつものことだが、日本人は「金」と「利権」が絡むと、「恥」も「外聞」も「矜持」もなくなり、ゴミと化す。

 

 マスコミや政府の感じからして、パラは予算がずっと少なかっただろうし、スタッフも二流だっただろう。

 しかし、だからこそ成功する。

 

 日本人に金を与えると、与えただけよくなるのではなく、むしろ駄目になる、いつもの話だった。

シンエヴァ

 エヴァが終わったらしい。
 ついにか。

 

 私は序、破とみて、破がくっそ面白かったので、庵野やったやん。やっとまともに作る気になったんだな。やっとアニメの投げっぱなしジャーマンやめるんだな。と思ったが、Qがアレだったので、私は愛想をつかした。

 

 もっとも、今度の終章は評判はよいようだ。
 ガチエヴァオタには不評なんかもしれんが、少なくとも初代エヴァからまあ、深入りするわけではないが、新作でれば見ていたような層にとっては、おおむね好評なようだ。

 

 

 庵野秀明は映像監督よしてはぴか一である。
 が、ストーリーテラーとしてはカッスだ。

 

 これは最初からわかっていたことだ。

 

 というのも、これまでのロボットものの延長線上(庵野自身、インタビューでエヴァはロボットものと呼んでいる)にあるような展開だったうちは普通に面白かった。
 個人的には、これまでのロボアニメにはないスタイリッシュさ(エヴァのデザインや、演出、漢字主体のキャプション、多用される静止画、衒学的な設定)があったが、目新しいわけじゃなかった。
 ただ、最後の2話で流れが変わった。

 

 しかし、あれは作画とか予算とかそういうんじゃなく、ストーリーをたためる手腕が庵野にはなかった、ということにすぎない。
 実際、エヴァの用語や設定の多くは中身がない。
 後続するオマージュ作品(だと私は思う)のラーゼフォンはちゃんと意味と中身がある。

 

 エヴァの設定や用語に中身がないことは、喝破されるのに時間がかかったが、ようは、演出の延長線上にあったから、意味も中身もなかったのだ。あれをストーリー作劇の要素をと考えるから、混乱したのだ。
 エヴァは演出優先の設定が断続的に続く、「演出偏重」の作品で、ストーリーは従来の借り物にすぎなかった。
 演出の話をしないといけないのに、皆混乱して、物語の話をしてしまった。これが大きな間違いだった。

 

 借り物のストーリー(28号から続くロボットものとしての水戸黄門化した物語)を捨てたとき、エヴァは中身がなかった。しかし、演出だけはあった(Qも、人工衛星で戦闘するオープニングのすばらしさ。もうロボットものの戦闘シーンは出尽くしたと思っていたが、そうじゃなかった。やはり演出を担う人間としての庵野は天才だ)。


 だから無駄に皆を引きつけてきた(もうひとつ厄介なのが、キャラ造詣が極めて良かったことだ。綾波はほとんど新しい領域のキャラクターで、雨後の竹の子のようなフォロワーを無数に輩出したが、最近は消滅したように見える。綾波系キャラの消失は、すなわち、エヴァファンがアニメを卒業していくのとリンクしているのかもしれない)。

 

 旧劇はまあ、そこそこストーリーはまとまってはいた。
 TV版は完全に話を投げていたが、一応、「意図的に投げ出したような話」として旧劇は成立していた。

 

 今度のシンエヴァは、「意図的に幕を引いた話」なのだろう。
 なら、ちゃんと総括できてよかったと思う。そのうち、見ようとは思っているが、なかなか見だせない。

 

 シンウルトラマンとかシン仮面ライダーとか企画があるみたいだが、たぶん、つまらない。シンゴジもあまりのつまらなさに寝てしまった。


 正直、ゴジラ作品は十作以上見てきたが、一番つまらなかった。演出はよかったが、結局ゴジラは初代の出来がよすぎる(演出、ストーリーともに)ので、ハリウッドを意識していたビオランテとどっこいだと思う。庵野はアニメの演出は神だと思うが、本人がやりたい特撮については、またジャンルが違うし、案外、才能がないように、個人的には思っている。

泥棒が泥棒と言ってもいい

 よく、中国がアメリカの黒人差別を非難すると、お前がいうな! ウイグル! ウイグル! とかネトウヨは言い始める。

 

 しかし、それは関係ない話だ。

 

 泥棒が泥棒を見つけ、おまえ泥棒! ということはできるし、どっちも泥棒である事実は変わらない。中国はアメリカをいくらでも避難できる。おまいうは批判にならないし、言う資格などというものは、ここに存在しない。

 

 が、おまえは泥棒だが俺は泥棒ではない、というのはアウトだ。

 

 中国の黒人差別批判は傾聴すべきだし、何も間違っていないし、正論だ。ただ、ウイグル問題はない、というのはアウトだ。

 このへんは切り分けて考えるべきだ。

暴力に寛容な社会

 志らくは面白くないし、偉そうだしで嫌いだが、中田翔の件で、「暴力事件を起こした人間をすぐに一軍起用する巨人はクソ」(超解釈)みたなツイートをしたらしい。珍しく正論だな。と思ったが、なぜか炎上したらしい。

 

 やっぱ野球界はおかしい。
 そして、野球は事実上日本のトップスポーツで、他を圧倒している(野球、相撲、そのほか全部という三区分)から、結局、日本人はおかしい。

 

 いじめや体罰が全然なくなる気配がないのは、そういうところだと思う。
 野球選手が「子供に夢を与える」職業なら、きちんと、「子供たちに示しをつける」職業であってほしい。

 

 子供たちは、誰かを殴っても、簡単に許されるどころか、おとがめもほぼなし、というのを野球から学び、社会出ていくのだ。

 

 私は日ごろから思っているが、日本社会は暴力の総数自体は少ないが、暴力に異様なまでに寛容な社会に見える(ただし、弱者の反抗については世界トップレベルに厳しい)。