原理的にITテクノロジーはアメリカが有利にできている。
TwitterやAmazonやFaceBookには新規性もなければ、特殊なテクノロジーも使われていない。誰でもできることだ。しかし、こういったプラットフォームは英語圏でないとまず無理なのだ。
ついでいえば、プログラミングというのはコモディティの極致のようなもので、誰が作ってもまあ大差ない。
半世紀前なら天才プログラマーもありえたが、今はどうでもいい。マシンパワーと膨大なライブラリとサンプルコードがすべてを解決してくれる(まあ99.9%の話で、0.1%の分野では天才が必須。AIとかね)。
ITテクノロジーに幻想を抱きすぎているきらいが、世間にはある。
アメリカ製アプリも日本製アプリも大差などない。別日本のアプリはしょぼくない。AWSもアズールも何もすごくない。
そもそも原理的にITテクノロジーのソフトウェアで欧米に勝つことは原理的に不可能だ。これは中国も同じ。なぜなら、そういう風に仕様ができているから、としか言えない。
逆に言えば、TSMCのようにハードウェア方面こそ欧米に打ち勝てる部分なのだが、このハードウェアで日本は圧倒的にアメリカや韓国、台湾に後れを取っている。
そう、しょぼいのはソフトじゃない。半導体の方だ。
ルネサスみたいなゾンビは早くどうにかしろ。
なにせ、ソフトはどうにでもなる。
別にソースコードを買えばいい。
そこにはイノベーションなどない。
コピペで最新コードも1秒で手に入るのだから。ハードはそうはいかない。設計図があっても製造できるわけではない。
半導体は膨大な投資とノウハウの塊であって、もはや追いつくことは困難である。
まだ国産クラウドとか言っている方がマシで、モノづくり! 半導体! とかもう馬鹿を休み休み言え、だ。
ではなぜITテクノロジー(ソフト)で欧米に勝てないのだろうか。
まず、コンピュータの基本仕様が英語だからだ。
ASCIIコードにさえ対応していれば英語のソフトはそれで全て賄える。
しかし、非英語地域、特に東アジアのような文字コードの世界だと、絶対ローカライズが必要で、そのためにコストが絶対に嵩み、バグも生まれ、互換性も下がる。
欧米でコモディティ化したコードもローカライズしなきゃいけない。そして、逆はない。
さらに、ITテクノロジーは基本的に、先行したやつがほぼ総取りする世界だ。
だから、いくら国内でイケイケドンドンでも、世界最大の市場であるアメリカで覇権を握ったプラットフォームが結局勝つのだ。
一太郎などいい例だろう。Wordに勝てないのだ。
mixiもそうだ。フェイスブックが優れていたわけではない。技術的にも経営的にも。ただ単にザッカーバーグがアメリカ白人だったから勝ったのだ!
Wordがいくら日本語表示がくそであっても、WindowsなりWebなりのプラットフォームがアメリカ製なのだから。
さらに無視できないのは、アメリカの国内法は事実上国際法として機能するという側面だ。
あとはEUの独占禁止法あたりも事実上国際法だ。いまも世界は欧米の法に支配されている。
日本の国内法は世界では一切通じないが、アメリカの国内法は諸外国は従わざるを得ず、EUのロハス指令なども同様だ。別に強制力はないが、従わないといけないのだ。
我々は今も白人の奴隷なのだ!
だから自国のIT企業に有利な立法が当然、行われる。
ゆえに、日本のIT企業が勝つことはない。絶対にない、と断言してもいい。自動車のように勝つことはできない。なぜなら、何度も言うようにITビジネスには技術は不要であって、「どこの国」か? の方が一億倍は重要だ。
有利になれば必ず不利な法律で反逆される。
実際、EUはMSなどにいやがらせをしているが、日本は出来ない。中国もできないし、ロシアもできない。
なぜなら、EUとアメリカ以外の国内法は国際法として認められないからだ。世界は今も欧米の植民地なのだ。
これがハードなら話はそこまで簡単ではない。
代替品がない場合があるからだ。
ソフトなんてのはなくなっても、すぐに誰かがつくってしまうが、ハードはそうはいかない。だからTSMCにはファブレス企業は誰も逆らえない。
「じゃあ自分で作るもん!」ともいえず、ほ、ほかの企業にやらせるもん! とはいっても、選択肢はSamsungくらいしかない。合い見積もりすらできるような状況にないのだ。
ここまで読んでわかると思うが、ITテクノロジーは「いいものはいつか知れ渡り、売れる」という世界ではなく、宣伝と国家の後ろ盾と資金、プラットフォームの初期仕様依存、という非常につまらないもので決まってしまう。
経営の手腕などというものも、ほとんど関係がない。日本人が天皇よりも崇拝するジョブスはぶっちゃけ猿でもよかった。
ChatGPTの自然言語処理は革新的だったが、ソフトウェア処理でこういう革新はほとんどないと考えていい。というか、出尽くしたといっていい。今は数学的なものをアルゴリズムでどう実現するか? と言う時代だ。
マシンパワーのなかった時代ではないからだ。
スレッズがXに勝てないのは、後追いだから、という理由しかない。
Xは何も優れていないし、すごくもない。ただ10年以上皆が使った結果、プラットフォームになっているだけなのだ。
ITはそういう意味では非常に権威的で、ベンチャーの夢! みたいなのも、実はもうほとんどない。
投資家たちが囃し立て、株式で儲けるためだけに存在するようなものだ。
このへんが日本人は何もわかっていない。
アメリカ人がITベンチャーに投資するのは別にITのためではなく、株で儲けるためでしかない。
実際、GAFAM以降に現れたベンチャーで何か革新的だったものは数えるほどしかない。ほとんどは売り抜けて終わりだ。
ITを技術の文脈で考えているから日本はダメなのだ。
IT(ソフトウェア)はマーケティングと政治と株式売買でほぼ99%出来ている。
技術は0.5%くらいだ。この比率は年々下がっている。そのうち0になるだろう。
中身は同じでガワだけ違うシステムしか存在しなくなる。
実際、スマホゲーは全部ルールが同じでガワだけ違うものが何百もリリースされていて、うんざりする。こういうとき、海外の人間は日本人よりも創造性がないと考えてしまうが、そうではないのだ。ITでの金儲けに創造性は必要がない。
特に政治は重要で、情報を扱う以上、政府はIT企業の情報が欲しくてほしくてたまらない。
だから癒着するし、アメリカは国内法を使い、世界中の情報を勝手に閲覧する。
ITハードウェアの場合、政治で問題視されるのは貿易だけだが、ソフトウェアの場合はそうではない。はるかに重要なのだ。
中国の首脳陣が日本の馬鹿政治家やアホ官僚と違って有能なのは、これがすべてわかっていることだろう。
アメリカ製のプラットフォームを拒否しているのはそのせいだ。
Windowsは使っているが、スタンドアロンでも使えるクライアントOSなどどうにでもなる。
問題はWebプラットフォームやスマホアプリのほうだ。
ファーウェイをアメリカが恐れているのは、ファーウェイは中国独自のIT体系を生み出すことが可能な唯一の中国企業だからだ。
アメリカで商売することを恐れているのではない。アメリカンルールそのものへの挑戦を恐れているのだ。
好きなところ
以前こんなことを言っていたのに……。今は意味なく配信きくのも癒やし。
理由は以下。
1.声が可愛い
こんな可愛い声の英語の歌きいたことない。声優とかしないんかなあと思う。
ガイジンってやっぱどこか野太い声なんだよね……。歌手は特に。オペラっぽいというか。
2.ガワと中身のリンク
一番リンクしてるのでは? と思う。魂とガワの親和性の高さよ。
3.ぎゃーぎゃー喚かない
Vのぎゃーぎゃーいうのが嫌いなんだよね……。
4.笑いのセンス
初配信の「あ」は天才の所業。ぐらTVで寝そべったり、大空警察のときにはめっちゃロジカル塩対応だったり、かと思えば、下品な下ネタいっていたり、面白い。
5.ガワのデザイン
デザイナーが実力を超えたものを生み出してしまった感がある。
6.ほんのり香る陰キャ臭
多人数配信のときに漂ってくるそこはかとない陰キャ臭。好き。
7.歌
カバーCD出して欲しいくらい。
8.声がわざとらしくない
日本語ネイティヴなら萌え声にわざとらしさを感じる(たいていのVがそれ。逆に普通に喋られると、リアルを感じてイヤ)がそれがないこと。
9.地頭はよさそう
勉強はできないが回転速いタイプに感じる。ただ言語化がおいついていない気配はする。早口だったり、同じフレーズを繰り返すことが多いから。
10.メンタルは強そう
わりといつも落ち着いている。
11.笑い声がいい
メスガキっぽい。ちょっとイラっとする感じが絶妙。
12.謎のカリスマ性
ホロENの多人数の中にいるとあまり目立たないが、単独だと異様にカリスマ性を感じる。歌う前に長時間ミュートしてみたり、惹きつける力があるのだけど、それはピンでないと発揮できない。
13.設定(ロール)を忘れていない
たまにアトランティスやサメネタを差し込んでくるのいいよね。ほぼすべてのVが設定忘れてるっぽいのに。
14.日本愛はなさそう
明らかに日本を好きなメンバーも多い中、あくまでも山下達郎が好きという感じのスタンスがよい。伝統文化とかは興味がなさそうである。だがそれがいい。
グッズも買ってしまったよ。
イッペー事件
大谷には興味はなかったが、この事件は大変興味がある。
イッペーが不正送金できたということは、イッペーに銀行口座の管理を大谷は任せていたわけで、そこまで信頼していた人間に裏切られたというドラマ性が面白い。
ネット界隈では七億くらい肩代わりしろとかいっているアホがいるが、そういう問題じゃない。
七万円で大谷は激怒したと思う。
何から何まで信頼していた人間に金を盗まれたんだぞ? 七万円でも怒る。信頼が崩壊してしまったからだ。
そして、大谷はイッペーを運命共同体のように考えていたかもしれないが(奥さん同士も仲がよかったりして)、イッパー側は「もっと金をよこせ」と思っていたわけだ。大谷に尽くすのは大谷が好きでも、彼の活躍に期待しているわけでもなんでもなく、いかにして金を引き出すか? と言うことに尽きた。
しかし、大谷は意外とケチで金をくれなかった。
大谷自身は大金を稼いでいるわりに散財していないので、まあそういう人間だったんだろうが、イッペーは金が欲しかったのだ。金のための奉仕だったのだ。
この両者の認識の違いも大変面白い。
まあ、大谷は散財はしていない一方、守銭奴(エグい節税対策)なのは確かだが、引退後に何かするつもりなんだろうな、とは思う。球団でも持つ気だろうか。
個人への興味の薄さとこの世への関心の低さ
好きなアーティストや作家はいる。
私は好きなったものは、わりと知りたくなるので、ほぼ全曲きいているし、本も読む。
けども、タイトルや歌詞を憶えられない。気に入っているものも、だ。
これは単純に記憶力のなさによるものかもしれない。
しかし、世間の人を見たとき、違うなと思ったことがある。
私は作家本人に関心があまりないのだ。
どんな背格好なのか、経歴や趣味は? 知らない。
同僚の名字すら憶えられないし、クラスメートの女子は美人か特徴的な外見や性格の人しか憶えていないし、当時も憶えていなかった。
対人に対する興味が薄いのだな、と思った。
だからたいていの場合は、上記の例で言えば、曲であり、作品にしか関心がなく、誰が書いたかなんてどうでもいいし、TVタレントなら、外見以外はどうでもいい。
声優も顔を知らない。なぜアイドル化したのかよくわからない。私は声が好きなだけだ。能登麻美子の声が好きだ。でも、彼女のことはよく知らないし、興味もない。
私はおしゃべりが好きだ。
誰かとしゃべるのは好きだ。
悩み事相談を受けたときは、助かると言われた。
私は別に根掘り葉掘りきかないし、相手を否定もしないが、話はきくからだろう。これは相手の内面には関心がないからで、関心があるのは、その「悩み事」自体。人間ではなく、人間「活動」に興味がある。だから、その人がどう考えているのか知りたいから、話はきくのだ。否定する理由もないから、きく。
心理学や歴史学は大好きだが、個人の英雄譚には興味がない。
私は人類の動向や、人類の歴史には興味がつきないが、個人の人間への興味はほぼない。
この世自体への関心も同時に薄い。誰がどうしたこうしたはどうでもいい。
社会そのものには関心がある。
それでも、ちゃんと知っておけばよかったと思う人が二人いる。
一人は初恋の仲のよかった女の子だ。私は彼女がハガレンを好きだったことは知っているが、どんな幼少期をすごしたのだろう。どんな家で育ったのだろう? 背は低かったがスタイルはよかったから水着姿もみたかったなとか。思うことがたくさんある。
もう一人は死んでしまった親友で、馬鹿な話とゲームの話しかしてなかった。もっと真面目な話をすればよかった。彼のこころのうちをもっと知っておきたかった。
英語は文脈依存言語で、日本語のように「字義通り解釈」があまり通じない気がする
英語は文脈依存言語で、日本語のように「字義通り解釈」があまり通じない気がする。以前から行ってはいることではあるが。
例示する。
たとえば、
I’m flattered.
これは「照れる」だが、字義通りに解釈すると「お世辞を言われた」だ。
お世辞を言われた→過度に褒められた→照れる。である。
flatterという動詞自体にはそんな意味ない。
この類いのことが英語には多く、どういった文脈や状況で言っているのかで変わる。
相づちの
I know.
もそうだろう。
「私は知っている」ではなく、単に「はいはい」程度なので、I know.I know.連発する。ただ、これが大事な場面でのI know.なら意味が違ってくるわけだ。you konowもただの間投詞みたいなもんだ。
日本語では、相づちは「はいはい」であるし、「わかりました」とはそもそも語の重みが異なっている。
だからこそ、英語圏では明確な契約や議論が発展したのだろう(フランス人は京都人的なところがあるが、イギリス人にはない)。
だいたいそういうことだの、一般的な意味合いだの、そんなことは「状況」や「文脈」がつまびらかでないと確定できず、ゆえに、明確に条文を作り、状況の積み重ね(判例)をつくり、議論(条件のすりあわせ)が要る。
日本語は字義通りに取ってだいたい間違いがないので、「誤解させてしまった系謝罪」が通じない。
日本語はまり文脈に依存しないので、「まあ言ったとおり」だからだ。
世間一般には英語は明快、日本語は曖昧とされているが、私には逆としか思えない(本来の素性の話で実際の運用の話ではない)。
英文を読み、英語のコンテンツに触れれば触れるほどそう思うし、逆に、小説を書いてきたからこそ、英語の小説を読むとその表現力に嫉妬する。
日本語はあまりに直裁的にすぎ、直裁的だからこそ、曖昧な表現(文を不明瞭化する手法の数々)が逆説的にだが発展してきたのだろう。
ただ、どんな言語も曖昧性はある。
だから本来は議論が必要だが、日本語は直裁的ゆえにだいたい通じるため、議論は軽視されてきたし、契約も軽視されてきた。
日本語は世界でも有数に簡単な言語だが、それはこの「字義通り解釈」でだいたいあってる側面もあるだろう。
上記の例のように、英語の場合、語と文の組み合わせいかんで大きく意味を変えるが、日本語はあまりそういうことはなく、語の意味範囲を制限する形容詞(意味の取り得る範囲を切り取る機能。人→「小さい」人は人の中でも背の低い人間という意味になるように)は非常に貧弱(日本語は形容詞の占める割合が著しく低い)なため、語を並べればほぼ文になる。
こういうと、日本語は曖昧な言語論者が黙っていないかもしれないが、日本語の曖昧性は、先にあげたように「文脈が不明なために曖昧」なのではなく、「文法上の省略が容易なこと」と「文法らしい文法が存在しない」ことに由来するものだ。
主語述語が不明確でも文として成立するため、言うべきことを言わないだけだ。
英語であるなら、フォーマルな文で主語を省略するなんてありえないので、「誰が」を言わなくてはいけない。
日本語では言う必要がないので、主語不明のままの謝罪が成立してしまう。
これは曖昧性というよりは言語上の欠陥だ。
この欠陥は東アジアの言語に多く存在し、韓国語、インドネシア語、満州語なども同等の曖昧な表現が可能である(主語を明示しない言語はラテン語系言語や、新大陸のナワトル語、ケチュア語なども主語省略がデフォであるが、動詞から主語が判明する仕様になっている。また満州語の親戚筋のトルコ語やモンゴル語も主語は動詞変化から判別されうる。というか、主語を明示する系の言語の方が数的には少ない)。
中国が東アジアで例外的に科学や数学、哲学が発展した(日本では自主的な発展は一切なかった)のは偶然ではなく、中国語は文法上、主語述語の省略が許されず、時制も完了形しかないために、逆に「いつどこで」を明示しないと文脈が通らないという性質のせいだと思う。
また中国語も英語同様、文脈依存性が強く字義通りの解釈(そもそも書かれた漢字の字義通り)では誤ることも多い。
日本では中国の古典を習うわけだが、中国の古典は「○○とは○○」というような定義を多く語る。
日本の哲学はそもそも定義が語られないことが多く、何を言っているのか意味不明で、ゆえに、日本で哲学はこれまであったこともないし、今後もないと思う。
世界はむしろブスに優しい世界になっているのではないか
世界はむしろブスに優しい世界になっているのではないか。
確かに私はかねがね、かつて「村で一番美しかった娘はいなくなった」だからルッキズムは際限なく拡大していく、と述べてきた。
私たちはインターネットで繋がってしまったがために、世界中の美男美女を知ることが出来る。
ゆえに、かつて情報が少なかった時代に村一番の美女(一生村の外を知らない人間が殆ど)が実は平凡な人物であることを知れてしまう。
が、逆に、私たちはテクノロジーでルックスを偽装する手段を発展させてきた。
画像加工アプリはむしろルッキズムの助長ではなく、逆、この世の画像世界からブスを撲滅できてしまう素晴らしいツールなのではないか。
Vなんてのは、モーションキャプチャやライブ2Dのおかげで、ブスゆえに表に出れなかった逸材が発掘されているのではないか。
声優が顔面重視になった結果、田村ゆかり級の人物が出てこなくなったのとは逆に、顔出しNGの世界ではむしろ才能や内面で評価される(だってガワはみんな可愛いのだ!)。
ブスにとってこんないいととはないのではないか。
adoだって昭和の時代に顔出ししないなんて無理だったはずだし、一定のルックスがないと表に出れないか、ブスを捻じ伏す才能(松任谷由実のような)が必要だった。
さすがにあのレベルはなかなかおるまい。
だから殆どのブスは泣くしかなかった。大して歌のうまくない美人がTVで踊っていたのだ。
世界はブスに厳しくなっているように見えて、その実、ブス隠しの手段は際限なく増えている。
しかし、恋愛の世界においてまだ美男美女が有利なのは、リモートセックスがまだ未来の話だからにほかならない。
が!
触覚や嗅覚を伝達する手段も発達してきた。
これまでは視覚と聴覚しかなく、視覚的に有利な美男美女があきらかに強かったが、要素が増えれば視覚の優位性はさがるし、現実に近いリモートセックスができれば、実際にあう必要はない。
あう必要がないならば、ブスはブスでなくなる。
加工アプリで加工した姿、Live2Dのガワこそが真の姿といえるのだ。
VTueberは中身の開陳がタブーなのはなんでか
最近、ぐらちゃんにハマってしまった。
最初は外見だけが好きだったけど、声や歌が気に入って、配信も見てしまった(これまで全く見てこなかったわけではない)。
私はVだけではなく、生身のYouTuberもそうなのだが、ぎゃーぎゃー喚いて不快で基本嫌いなのだが、さめちゃんはぎゃーぎゃー言わないのが好感がもてた。あと笑い声が可愛い。
で、うっかり中の人を調べてしまったが、後悔した。
中の人がブスだったとか犯罪者だったとか、そういうことじゃない。
そうではなく、私の中ではサメちゃんの外面とあの声と内面は結びついているのだ。この人じゃないと中の人のことを思ってしまう違和感。
これが声優との違いだ。
声優が演じるキャラはあくまでも、他の創作者がつくったキャラクターだ。そこにアドリブはあれど、声優の意思はない。あるのは原作者や音響監督の意思だ。
しかし、Vの場合、デザインはデザイナーがしているとは言え、そのガワの言動は特定の一人にしか許されない。キズナアイが分裂して失敗したのはそういうことだ。
アニメキャラは原理的には誰が演じてもいい(アニメではなくてもいい。ジュリエットは誰がやってもいい。ロミオもだ。)が、Vの場合、演じている中身と外見は一対一で結びつく。
Vの場合は、一対一で結びつくので、誰が演じてもいいことにはならない。他の人がサメちゃんを演じた場合、それは「ものまね」になる。
Vは一個人に近い形で認識されている。
だからこそ、中の人の本当の姿がエラーになってしまう。
ひとつの魂(精神)が二つの外見を持つことは原理的にない。
私はだから後悔した。サメちゃんはサメちゃんの魂(中の人)とサメちゃんの外見が結びついているはずなのに、こいつは誰だ? という認識上のエラーだ。
だからVは中の人の公開が基本許されない。
中の人が有名人で、あとからVのガワをかぶる場合、これは仮装にちかい。なまはげの中身が近所のおっさんだってことはみんな知っているし、会合で今年のなまはげ役が決まるのだ。
しかし、多くのVは最初にVの姿で現れる。
最初からなまはげなのだ。
なはまげには中身があるのはわかるが、始終なはまげ姿だったら、もうその人はなまはげと認識されるだろうし、いざなまはげの衣装を取ったら、それまで何年もなまはげとして接していた人は困惑するはずだ。
だから、サメちゃんはサメちゃんであってほしい。可愛らしく踊るサメちゃんはサメちゃんの外見であってほしい。それは交換可能ではないんだ!
もっとも、モーションキャプチャーだれたダンスシーンを本人(本人とは? という観念的な問題があるのだが)がしているとも限らないけども。
自然状態では、外見と中身は結びつく。これはもう人類の認識上のエラーだろう。いや、エラーというよりは、本来はそうあるべきものがそうではないことによって生じてしまう予想外のハングアップだ。
多くの人はそう思っているんじゃないか?
中の人がいるとは知っていても、それを見たくないのだ。
アニメキャラの場合、中の人が不細工な声優だったとしても、最初からそのアニメキャラの魂と声優は結びついていない。
クソ演技乙で終わりだ。
そもそもキズナアイからして、そういうデビューだったはずだ。
中の人はいるのはわかりきっているのだが、AIという設定だったはずだ。AIなので中の人はいないという了解があるコンテンツだった。
ただキズナアイや輝夜月のような時代は設定は比較的遵守されていた。
キズナアイはAIという設定を遵守した。
だから魂とガワは一意に結びついていた。いや、そいう決まり事の遊びだった。なんでもそうだが、黎明期は暗黙の了解をわかっている連中だけで楽しむものだ。大衆化してくると、その暗黙は崩壊する。
実際、今言った二人はも2024年4月現在、活動していない。
私はこのキズナアイのスタンスに強い関心と未来を感じた一人だったが、こういうものにありがちなことに、結局キャバクラ化していく。
メイド喫茶なんかももともとはコンセプトを楽しむものとして始まったわけだが、最近はコンカフェと呼ばれ、ガールズバーまがいの何かであるようだ。
コスプレしている以外に普通のガルバとの違いはあまりない。
Vも一般の配信者と同じ傾向になっていき、しょっぱなから胃カメラかなんかの配信までするようになった。
私はげんなりした。
Vもそのまま一般の配信者と区別がつかなくなったというか、それだからこそ、魂と肉体の一意性はむしろ強まった。
キズナアイの場合、そういうコンセプトだったわけだが、一般の配信者のようにリアルな日常を口にすればするほど、ガワの可愛い女の子の配信と区別がつかなくなった。
可愛い女の子が配信していて、それにガチ恋するというような完全にキャバやガルバのそれである。色恋営業だ。
キズナアイはそうではなく、AIという設定を楽しむモノだった。
サメちゃんは大衆化して以降のVなので、配信者と変わらないが、最低限の設定はたまに使ってくるのでマシな部類なのではないかとは思う。
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彼女は胃カメラを公開したが、もうげんなりの極地だった。
キズナアイの系統は死んだ!! 死んだんだ!!