嘘を嘘と見抜けないやつにインターネットを使うのは難しい、というのはひろゆきの弁で、有名だが、いまはほとんど無効の言葉に思える。
というのも、2chが始まったころのインターネットはまだまだ牧歌的で、嘘の方が少なかった。だから事実や真実にまぎれる嘘を見抜く能力が求められた。
でも今は違う。
インターネットは嘘、詐欺、誇大広告、事実誤認の垂れ流し、そんなのばかりで、事実のほうが少なく見える。
ニュースサイトでさえ、怪しいソースのものを掲載するし、ほとんどの人間にとってはネットニュースよりも、Twitterやまとめサイトの方が閲覧時間も長い。
そしてそれらのサイトはニュースサイトと異なり、一切の査読もない。
いまは、事実を事実と見抜けないやつにインターネットを使うのは難しい、となる。
日本における重要な習慣や概念の多くは明治時代以前に遡らず、だいたいイギリス由来である
日本における重要な習慣や概念の多くは明治時代以前に遡らず、だいたいイギリス由来である。
たとえば、白無垢や神前婚というのは西洋のウエディングドレスとキリスト教式の結婚式から派生したもので、日本に於いて白装束は喪服や死装束を意味するので、結婚式でも基本、黒であった。
いまでも男は黒の裃を着ることからわかるだろう。
先輩・後輩というのももともと日本的ではない。
徒弟制度として、兄弟子・弟弟子というのはあったが、同級生という概念、それの上下としての先輩・後輩という概念はない。
というのも、弟子関係は年齢は関係ないし、師匠という存在がなければ意味もない。
先輩・後輩概念、これは学校制度と強く結びつく。
元ネタはイギリスのパブリックスクールで、ここでは日本の先輩・後輩にあたる作法が昔からあるが、面白いのは、先輩・後輩に該当する言葉がないことと、パブリックスクールは上流階級の学校だということ。
それがなぜか日本ではすべての学校教育に導入された。結果、本家とはかなり異なった上下関係が生まれた。
西洋式は歩き方すら変えてしまった。明治以前の正しい歩き方とは難波歩きで、これは着物の構造と関係がある。
星や暦は古来からのモノは死に絶えた。
卍マークは本来仏教のシンボル(正確にはアーリア人のシンボル)だが、殆どの日本人はナチスドイツのハーケンクロイツ(向きが逆だし、ネタ元が同じだが)を想起する。
和魂洋才ではないが、結局、観念が西洋化してしまっている。
哺乳類は昆虫や鳥類と比べ古いスタイルの動物である
哺乳類は昆虫や鳥類と比べ古いスタイルの動物である。
このため、哺乳類の社会は鳥や虫に比べて単純で面白みを欠くものとなっている。
たとえば、鳥の求愛行動は多種多様であるし、形態もさまざまだ。虫は真社会性をもつ。
が、古い哺乳類という動物は、暴力的に強い雄がモテる・偉いという古い原則が維持されている。
人類はどんなに自分を万物の霊長といおうが、この原則は本能なので維持されている。
弱男は、女は暴力的な男が好きだというが、これは非常に正しい。
そもそも、鳥類や虫のように、ディスプレイによって雌を取り合わないし、雌の方が主導権を持つ種は何百もあるうち、数種にすぎない。
哺乳類では雄が大きく、雄が主導権を持ち、雄同士の争いは暴力で決まり、勝った側は雌の意思を無視して交尾できることが多い。
雌もまた、弱い雄との交尾は強烈に拒否するが、強い雄との交尾は基本的に拒否しない(強い拒絶を示さない)。
また、鳥類のように雌側の嗜好も雑多ではなく、強さという単純な軸で決まる。
女が男を煽る行動をあえてとる(自分からは交尾をせず、相手を挑発して交尾へ持って行く)のも雌に主導権がないことの現れだろうし、男を怒らせることでその暴力性を確認しているのだろう。
実際、怒鳴らない男の方がモテない(結婚には向くと言うだろうが)。
社会もまた、蟻や蜂のように生まれながらに決まっていないが、事実上、決まっている。
暴力的に強い雄が基本として支配者になる。
もっとも、高等な哺乳類だと、筋肉だけでは決まらず、知性も大事だが、これは「効率よく暴力を行使する」知性のことだ。
これは狩りのうまさにも繋がるだろう。
蜂の社会や蟻の社会では、生まれや育ちで社会の構成が決まっているため、革命はない。
しかし、暴力で担保される哺乳類社会は、暴力によって革命が起こる。
老いた雄ライオンは若い強い雄ライオンに雌を盗られる。
蟻や蜂の社会ではそうではなく、交尾が終わった雄は捨てられる。
それも最下層の働き蜂に。そう、社会ができているからで、だから蟻塚は数千年も存在し続ける(シロアリは昆虫ではないけども)。
ゆえに、哺乳動物ある人間はどんなに理性や知性を発達させても、暴力への憧れ、服従を捨てることはできない。
お金よりも本当に雄がほしいのは「暴力」である。これは現代社会では支配と呼び変えてもいい。
優しい=弱男というのも、これは小柄なトドが雌のふりして雌と交尾する戦略に通じるものだ。
強い雄に優しさは必要ない。横暴に振る舞っても、女は寄ってくる。寄ってこなくても、支配すればいい。
「お求めやすい」は誤りで、「お求めになりやすい」が正しいとか言う話をきいた。 これだから国語学はゴミなのだ
「お求めやすい」は誤りで、「お求めになりやすい」が正しいとか言う話をきいた。
これだから国語学はゴミなのだ。
どう考えても文法的には、求める+やすいの合成語である「求めやすい」に接頭辞「お」がついた丁寧表現である。
これを「求め」と「やすい」にわざわざ分解し、個別に尊敬表現として、「お求め」+「なりやすい」とするなんて、ステップが多く、アホの極みである。
「求めやすい」が二語だと思って使っているやつが殆どいない(=一単語だと皆思っている)からこそ、「お求めやすい」という「誤り」とやらが発生するのだ。
形容動詞なんて馬鹿みたいな品詞分類をいまだにやっているだけのことはある。
この世に形容動詞なんてものは存在しない(実際そんな品詞を設定している世界各国の国語学はない)。
イ語尾活用の形容詞と、ナ語尾活用の形容詞の2種類の形容詞があると考えればいいだけで、形容動詞なんて新しい品詞を作る必要はない。
また、「動詞」としているのも馬鹿の極みで、形態的には動詞的だが、機能的には「名詞」であり、英語ではこれをAdjective noun(形容詞的に振る舞う名詞)としている。
形容詞との違いはWikipediaによれば、
形容詞は「大きいである」のように「~である」をつけることができないが、形容動詞は「不謹慎である」のように「~である」をつけることができる。
とあるが、もう開いた口が塞がらないほど馬鹿である。橋本は幼稚園児レベルの知能だったのだろう。
どう考えても、ooki-iの活用がooki-kuで、hukinsin-naの活用がhukinsin-deなのだ。そう考えるほうがすっきりする。
なぜ、「である」を一個の要素だと思うのか。「で」が「ある」とセットだと思うのか?
おなじ「で」だからといっておなじものとは限らない。名詞につく接辞「で」とナ形容詞の活用語尾「で」は別ものだ。
すると、すっきりする。
大きくある ooki-ku aru
不謹慎である hukinsin-de aru
猫である neko de aru
文法というのはすっきりしていなければならない。
これは最初の文法学者であるパーニニ(紀元前の人だ)が実践したことだが、日本ではいまだに普及していない(外人への日本語教育では普及しており、アホの極みの国文法など参照しない)。
歴史的経緯などうでもよく、実際にどういう風に文法が使われているのか? が大事だ。
歴史的経緯を大事にするあまり、形容「動詞」などという噴飯物の用語をつくってしまう。
日本語とは本来非常に簡単な部類の言語である。
しかしこのラビリンスのように無駄に回り道した国文法のせいで、すごい言語に見えてしまう。
動詞の活用も実際はほぼ2種類しかない。
何段活用がーとかいうのは要らない。
国文学者は母音で考えることができなかったため、このようなことになった(英文法をまねしておきながら肝心の英文法的発想法が生まれなかったのも知能の低さを物語る)。
売る ur-u ur-a ur-i ur-e ur-o
着る kir-u ki-0 ki-0 kir-e kir-o
不規則動詞も、来る、する、問うの三つしかない。
来る kuru ko ki kure koi
する suru si si sure siro/seyo
問う ->過去形がtottaが正式だが、通常、tootaとなることが多い。
これにしても、英語のようにまったく別の変化(be are isのような)ではなく、規則動詞とほぼ変わらない。
また、形容詞には不規則なものはない。
後置詞にしても、英語の前置詞のように潤沢ではなく、常用するのは「を」「に」「から」「へ」「で」「と」「まで」しかない。