憂邦烈士連合会@ソロプレイ

IT、PG、アニメ、エンタメ、政治、歴史、時事、社会、カメラ、etc

英語は文脈依存言語で、日本語のように「字義通り解釈」があまり通じない気がする

 英語は文脈依存言語で、日本語のように「字義通り解釈」があまり通じない気がする。以前から行ってはいることではあるが。
 例示する。

 たとえば、

 I’m flattered.

 これは「照れる」だが、字義通りに解釈すると「お世辞を言われた」だ。
 お世辞を言われた→過度に褒められた→照れる。である。
 flatterという動詞自体にはそんな意味ない

 この類いのことが英語には多く、どういった文脈や状況で言っているのかで変わる。
 相づちの

  I know.

 もそうだろう。
 「私は知っている」ではなく、単に「はいはい」程度なので、I know.I know.連発する。ただ、これが大事な場面でのI know.なら意味が違ってくるわけだ。you konowもただの間投詞みたいなもんだ。

 日本語では、相づちは「はいはい」であるし、「わかりました」とはそもそも語の重みが異なっている

 だからこそ、英語圏では明確な契約や議論が発展したのだろう(フランス人は京都人的なところがあるが、イギリス人にはない)。

 だいたいそういうことだの、一般的な意味合いだの、そんなことは「状況」や「文脈」がつまびらかでないと確定できず、ゆえに、明確に条文を作り、状況の積み重ね(判例)をつくり、議論(条件のすりあわせ)が要る。

 日本語は字義通りに取ってだいたい間違いがないので、「誤解させてしまった系謝罪」が通じない。

 日本語はまり文脈に依存しないので、「まあ言ったとおり」だからだ。

 世間一般には英語は明快、日本語は曖昧とされているが、私には逆としか思えない(本来の素性の話で実際の運用の話ではない)。
 英文を読み、英語のコンテンツに触れれば触れるほどそう思うし、逆に、小説を書いてきたからこそ、英語の小説を読むとその表現力に嫉妬する
 日本語はあまりに直裁的にすぎ、直裁的だからこそ、曖昧な表現(文を不明瞭化する手法の数々)が逆説的にだが発展してきたのだろう。

 ただ、どんな言語も曖昧性はある。
 だから本来は議論が必要だが、日本語は直裁的ゆえにだいたい通じるため、議論は軽視されてきたし、契約も軽視されてきた。

 日本語は世界でも有数に簡単な言語だが、それはこの「字義通り解釈」でだいたいあってる側面もあるだろう。
 上記の例のように、英語の場合、語と文の組み合わせいかんで大きく意味を変えるが、日本語はあまりそういうことはなく、語の意味範囲を制限する形容詞(意味の取り得る範囲を切り取る機能。人→「小さい」人は人の中でも背の低い人間という意味になるように)は非常に貧弱(日本語は形容詞の占める割合が著しく低い)なため、語を並べればほぼ文になる。

 こういうと、日本語は曖昧な言語論者が黙っていないかもしれないが、日本語の曖昧性は、先にあげたように「文脈が不明なために曖昧」なのではなく、「文法上の省略が容易なこと」と「文法らしい文法が存在しない」ことに由来するものだ。

 主語述語が不明確でも文として成立するため、言うべきことを言わないだけだ。

 英語であるなら、フォーマルな文で主語を省略するなんてありえないので、「誰が」を言わなくてはいけない。
 日本語では言う必要がないので、主語不明のままの謝罪が成立してしまう。

 これは曖昧性というよりは言語上の欠陥だ。

 この欠陥は東アジアの言語に多く存在し、韓国語、インドネシア語満州語なども同等の曖昧な表現が可能である(主語を明示しない言語はラテン語系言語や、新大陸のナワトル語、ケチュア語なども主語省略がデフォであるが、動詞から主語が判明する仕様になっている。また満州語の親戚筋のトルコ語モンゴル語も主語は動詞変化から判別されうる。というか、主語を明示する系の言語の方が数的には少ない)。

 中国が東アジアで例外的に科学や数学、哲学が発展した(日本では自主的な発展は一切なかった)のは偶然ではなく、中国語は文法上、主語述語の省略が許されず、時制も完了形しかないために、逆に「いつどこで」を明示しないと文脈が通らないという性質のせいだと思う。

 また中国語も英語同様、文脈依存性が強く字義通りの解釈(そもそも書かれた漢字の字義通り)では誤ることも多い。
 日本では中国の古典を習うわけだが、中国の古典は「○○とは○○」というような定義を多く語る。
 日本の哲学はそもそも定義が語られないことが多く、何を言っているのか意味不明で、ゆえに、日本で哲学はこれまであったこともないし、今後もないと思う