マウスコンピューターのPCの電源が入らなくなり、修理を頼んだ。
マウスの評判は世間ではイマイチだったし、サポートのメール対応も迅速とはいいがたかったが、あまりの修理速度の速さに、「これからはマウス」を使おうとなってしまった。
というのも、18日午前集荷で、土日を挟んだのに、23日には修理完了の出荷案内である。早すぎる。
マウスコンピューターのPCの電源が入らなくなり、修理を頼んだ。
マウスの評判は世間ではイマイチだったし、サポートのメール対応も迅速とはいいがたかったが、あまりの修理速度の速さに、「これからはマウス」を使おうとなってしまった。
というのも、18日午前集荷で、土日を挟んだのに、23日には修理完了の出荷案内である。早すぎる。
シュワルツェネッガー元知事が、コロナ対策のためにマスクをすることが大事で、自由なんてくそくらえといったのが問題となっているようだ。
しかし、そのあと彼は「自由には責任と義務が必要」という至極当然のことを言ったようだが、これが「自由の制限」と批判されていると朝のニュースでやっていた。
本当だろうか?
これが炎上するとすれば、確かにアメリカしかない。
批判しているのはネオリベであろう。ネオリベはほぼアメリカでしか勢力がないが、これは人類の価値観に反しているからだろう。
人類の価値観に照らせば、「独裁政治」のほうがずっと普及(有史以来最も普及してきたといっても過言ではない)しており、普遍的なのだ。
そもそも、本当に究極の自由があるとすれば、法律など存在しないはずだし、合衆国にも法律がある以上、自由は絶対的に制限されている。ゆえに、マスク着用は法律ではないが、マスク非着用は公序(日本ではこれを公共の福祉といい、wikipediaではローマから続く概念のように言っているが、そもそもwikipediaは日本語のページが一番充実している上、他言語は英語しかなく、英語版にはフィリピンとアメリカの事例はあっても、日本の事例はないため、日本の法律・行政用語にありがちな「西洋由来と嘘をついているガラパゴス概念」だと断定できる。これは法律や行政を勉強するとわかるのだが、工学や医学などと異なり英語の用語が併記されないケースがほとんどなのだ。そのくせ、なぜか外国の学者の論を異様に崇拝する)に反する。
反するのだから、制限されて然りだ。
ほとんどのアメリカ国民は批判していないと思う。
アナログレコードや油絵、紙の本などには興味もあるし、基本的に紙の本派だけども、フイルムカメラだけはとんと興味がわかない。理由ははっきりしている。途中でデジタル変換されるからだ。
アナログレコードはアナログの記録をアナログのスピーカー振動に変える完全なアナログ装置だ。CDにしても最終的なアウトプットは絶対にアナログになる。油絵も完全なアナログだ。
紙の本はいまどきDTPだから作成時はデジタルだが、印刷されることでアナログになる。
ではフイルムカメラはどうか。
20世紀の終わりはまだフイルムカメラがデジタルよりも強かったが、実際には現像以降はデジタル化されていた。プリントはずっとまえからデジタルだったのだ。だったら最初からデジタルで撮影しても大差ない。
確かにいまだにアナログプリントがまったくできないわけではないが、絶滅危惧種だ。
さらにフイルムカメラで撮影してプリントせずに保存しようと思うとそれはデジタルデータなので、やはり最初からデジカメでよい。
しかしこういうと、CDだって、音源はアナログでCDで符号化されてまたスピーカーで戻しているじゃないか。と言われるかもしれない。確かにそうだが、CDの場合、わたしにできることはないわけだし、最終的な結果はアナログでしか楽しめない。ここが根本的に違う。
かつては写真もアナログプリントで楽しむものだったが、今は違う。デジタルデータを送りあう時代だ。TVやスマホで見る時代だ。
だからフイルムカメラ愛好家の言い分はちょっと頭のおかしい点が多い。
紙の本派は読みやすいという。これはいい。本は読むものだから読みやすいのが一番だ。
フイルムカメラがデジカメよりも撮影しやすいということは絶対にないと断言できる。だから彼らは、「撮影に集中できる」というちょっと意味の分からないことをいう。デジタルペイントよりもアナログペイントのほうが集中できるなどという話はきいたことがない。
聞かない理由はわかる。アナログの味はデジタルとは根本的に違うから、そんな意味不明な理由を述べる必要がないし、アナログのほうが情報量が多いこともはっきりしているからだ。
一方カメラの場合、フイルムの情報量は多くない。感光する粒子の数が限界だからで、だいたい1000万画素相当といわれている。つまり、デジカメよりも情報量がないというわけだ。
だから、アナログカメラ好きは「本質的な部分」での議論ができない。
カメラとは撮影結果が本質のはずだ。これはCDもデジタルペイント同じだ。出力結果が悪いのに集中できるからとか、そんな理由でやるやつは中々いない。
オーディオ厨がレコードを偏愛していても、私はなっとき出来る。だって、レコードのほうが音域広いのだから。
Eスポーツの大会を見ていて思うのは、韓国中国はいわゆるチー牛顔が多いということ。これは納得である。
チー牛顔とオタク性は強い相関関係をもつ。ヤンキー顔と暴力性に相関があるのと同じ。
一方、アメリカやヨーロッパではチー牛感はあまりなく、顔も整ってはいるが、陰キャ感はぬぐえない。クラスの一人くらい入る「顔はいいが陰キャ」という連中に見える。これも納得できる。
納得できないのは日本で、日本のプロゲーマーは中韓みたいなチー牛顔は少なく、欧米みたいな陰キャ感もあまりなく、陽キャよりっぽい感じで、顔もチー牛よりはヤンキー顔である。
私はこれまでの人生で一人だけ元プロゲーマーと知り合ったが、こいつはヤンキーもとい不良であった。現在は更生していたが、若いころはやりたい放題だったようだ。ある日、ゲームで好成績をマークしていたところをスカウトされたという話だった。
日本ではプロゲーマーはアウトローというか、川原乞食ということなのだろう。
中韓では大枚を稼ぐプロ、日本で言えば野球のプロとゲームのプロは全然別物と思われているが、韓国ではプロゲーマーの社会的地位が高い。そうなると、ヤンキーの入り込む余地はあまりないし、社会的地位が高くなると地頭の違いや清廉潔白さが重要になってきて、高学歴はだいたいチー牛なのでチー牛化する。
欧米も同じだろう。見てくれがよいほうが人気も出る。欧米ではプロスポーツとモデルを兼業している選手も多く、プロスポーツマンの顔面偏差値が高い傾向になるが、そういうことだろう。プロモートの観点から、わりかし顔のいいやつが選抜される。
日本のEスポーツの地位が、彼らの顔面の造形からわかる。
数あるガンダム作品の中で、初代を除き、ガンダムにおいて重要な作品はGガンダム及びガンダムSEEDである。
異論しかないと思うが、この二作品は重要である。メタ的な重要さだ。つまり、商業的な意味、ガンダムという作品群はいまも現役である意味、そういった重要さだ。
たとえばGガンダム放映時、ガンダムブランドは終末を迎えていた。F91は大ゴケし(結果、TVシリーズ化できなかった)、Vガンダムはゴミのようなストーリーと作画で話にならず(メカデザインはよかった)、富野はついに監督から降ろされた(当然だ。ブレンパワードやキングゲイナーなどを見るに、富野由悠季には才能はないように見える。若いころの作品群に才能のようなものが見えるのは、若いがゆえに、彼の独断と偏見で作品がつくれなかったからで、つまり、優秀なスタッフを扱うはうまかったが、本人に才能はない)。
Gガンダムは放映前に特番が組まれていたのを憶えている。それほど気合が入っていたし、監督の今川泰宏は鬼才だ。私は日本アニメ界で才能で評価するとすれば、今川泰宏は明らかに細野守や押井守よりも上だが、一般的な知名度がないのと、玄人受け(マニアではない)の作品群のせいで正当に評価されていない。
ともあれ、Gガンダムは大成功した(意外かもしれないが、GガンはTVシリーズとしてはまだ5作目なのだ!! ガンダムがいかに、オタコンテンツだったかわかろう)。
というのも、それまでのガンダムの世界観を破壊し、「なんでもいいんだ」という道(ロボットプロレスしてもいいし、ガンダムは出しまくってもいいし、生身の人間がMSに勝ってもいい)を開いたパイオニアだからだ。Gガンダムなくして、続くWやXはありえず、アナザーガンダムの地平は生まれなかった。ガンダムブランド存続において、Gガンダムの重要性は際立っている。
さらにGガンダムはストーリー自体は、ふざけた外面に対し、大変よくできているということだ。子供にもある程度分かりやすく、しかし、案外奥が深く、それまでのガンダムシリーズのように、突然ラスボスが出てくることもなく、最初から最後までラスボスはデビルガンダムだ。数あるガンダム作品で、一番整合性のあるストーリーは? といえばGガンだ(設定に整合性があるとは言っていない)。
しかし、Gガンの地平はW(これもまた新しいガンダムをつくった。こちらは真面目そうな外面に対し、話はめちゃくちゃである。私は意味不明すぎて見るのをやめた。ガンダム自体はかっこよかった)、Xと続くうちに失速してしまった。ターンエーで富野が引導を渡す格好でいったん、シリーズは閉幕することとなった。
リブートしたのがガンダムSEEDである。
続編の種死はゴミだった(見るのをやめた)が、SEEDは救世主だった。作画、ストーリー、ガンダムのデザイン、どれも素晴らしく、若干、キャラデザが人を選んだ。初代のリメイクのようなストーリーだったが、最早1970年代という古臭い時代の古臭いガンダムではなく、まさに21世紀のガンダムとして圧倒的な売り上げを見せた。
SEED以降、ガンダムブランドは堅調に推移している。
初代のような社会現象にこそならないが、そこそこの売れ行きを見せている。本当なら、新時代のガンダムサーガとして、コズミックイラが描かれるはずだったのだろうが、あまりにも続編(種死)がゴミすぎた。
私は基本的に本編にしか興味がないので、サイドストーリー群はよく知らないが、SEEDにはうなるほどの派生作品群があり、これは宇宙世紀に次ぐ数だ。
SEEDの成功を見て、ほかのシリーズもリブートがなされようとしたが、うまくいっていないように見える(マクロスはFはよかったが、以降続かない)。
現在ロボットアニメは下火になっており、ガンダムブランドの権能こそが、ガンダムというロボットものを存続させている。
マクロスはパチンコに魂を売ったが、ロボットもののシリーズとしては、ガンダムと雲泥の差がひらいており、取り返せない。
アクエリオンは新時代のロボットものになるはずだったのだろうが、うまくいなかった。マジェプリにせよ、ヴヴヴにせよ、新時代を狙ったものはすべて討ち死にした(ガンダム自身も、00以降の新時代開拓はうまくいかず、結局はハサウェイを映画化している)。
エヴァも終わったし、エヴァは設定上、ガンダム世界のように世界観が広がらない。所詮は庵野の世界観を逸脱できない。
私はナデシコが好き(リアルタイムでは興味がなかったので見なかったが、のちに見た)で、明らかにいまだにファンも多く、著作権のごたごたさえなければ(うまくいけば)リアルロボットアニメにおける第三勢力になれた気がする(佐藤竜雄も素晴らしい監督だ)。
ラノベ発で、フルメタはかなりいい線いったが、こっちも世界観が広がらない。
もはや、ブランドとしての権能をもつガンダム以外は駄目なんじゃないだろうか。
ブレイクしそうで、それほどでもない。
写真集を買った。
私は桃月なしこがメジャーデビューする前はよく知らないが、デビュー後知ってから、ファンである。
というのも、あのバタ臭い顔、人を見下すような目がエロいところ、かなり好みだからだ。
しかし、写真集自体はわりとがっかりだった。
水着ばかりなのだ。
彼女はコスプレイヤーあがりのグラドルみたいなもんだが、スタイルはあまりよくない。いや、一般的な意味では全然いいほうだが、胸はさほど大きくないし、くびれもあまりないし、尻は小さい。水着よりも着衣のほうがずっとエロい。
サカイのCMとかマジ最高だよ。ボーイッシュな恰好がとても似合う。
えなこはあまり好きじゃないが、水着グラビアなら、断然えなこがいいだろう。
コスプレイヤーとしてはどうか。
正直、私はレイヤーは好きじゃないのだ。やっぱり日本人って、色とりどりのカツラが絶望的に似合わない。これは、えなこもそう。えなこは普通の水着グラビアのが抜けると個人的には思う。
で、なしこちゃんはすごい。
似合うのだ。カツラが。
誰ガ為のアルケミストのCMを見た時だ。金髪のヅラとカラコンがとても似合うのだ。
正直、変な色のカツラが似合うのはなしこちゃんと、ガッキー(掟上のとき)しかいないと断言できるくらいだ。
似合っているので、逆にコスプレ感が薄い。
レイヤーとしては逆に駄目な気もする。
キラメイジャーでも、変な色のヅラが似合っていたし、やっぱなしこは着衣だね、と思った。
しかし、戦隊とか見ている層はあの手の顔が好きなんだろうか。
いま、仮面ライダーに出ているアンジェラ芽衣も明らかに同系統の顔(なしこちゃんと違い、首から下も絶品だが、素の喋りがキモオタっぽくてイカン。なしこちゃんはインタビュー見る限り、普通だ)で、私は好きなのだ。
なんでもかんでも認めろ。美しく思え。
そうじゃないなら、出ていけ。
そういう偏狭な愛国を求めるやつが多すぎる。
愛ってそういうもんかね?
世の中には、妻をぼろっかすにけなしているのに、実は愛妻家みたいなのいっぱいいる。
愛国もそういう側面もある。
日本はクソといいつつ、愛している。
そういう愛こそ、一面的ではなく、深い愛のように思う。あばたもえくぼ。そこまで至っていないのだ。美しいと思わねばならないと思っている自称愛国者は。
いやなら出ていけ?
いやとは言っていないのだ。
クソと言っているにすぎない。
うちの妻はクソだが、可愛いというのは成立する。日本はクソだが、出ていく気はないというのも同様に成立する。
まさか、愛国だけが、通常の愛情と違うというのだろうか?
もしそうなら、そんな偏狭なのは愛ではない。
美しい日本とかいっているやつ、いやなら出ていけといっているやつは、愛国者ではない。くそを愛せてこそ、醜くても愛してしまうことこそ真実の愛。そこに至っていない。
美しくないと愛せないというなら、単なる面食いだ。
私は日本はクソだし、別に美しい国じゃないが、出ていく気はもちろんない。世界で一番愛している国であることに変わりはない。