憂邦烈士連合会@ソロプレイ

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「お求めやすい」は誤りで、「お求めになりやすい」が正しいとか言う話をきいた。 これだから国語学はゴミなのだ

 「お求めやすい」は誤りで、「お求めになりやすい」が正しいとか言う話をきいた。
これだから国語学はゴミなのだ。

 どう考えても文法的には、求める+やすいの合成語である「求めやすい」に接頭辞「お」がついた丁寧表現である。
 これを「求め」と「やすい」にわざわざ分解し、個別に尊敬表現として、「お求め」+「なりやすい」とするなんて、ステップが多く、アホの極みである。
 「求めやすい」が二語だと思って使っているやつが殆どいない(=一単語だと皆思っている)からこそ、「お求めやすい」という「誤り」とやらが発生するのだ。

 形容動詞なんて馬鹿みたいな品詞分類をいまだにやっているだけのことはある。

 この世に形容動詞なんてものは存在しない(実際そんな品詞を設定している世界各国の国語学はない)。

 イ語尾活用の形容詞と、ナ語尾活用の形容詞の2種類の形容詞があると考えればいいだけで、形容動詞なんて新しい品詞を作る必要はない。

 また、「動詞」としているのも馬鹿の極みで、形態的には動詞的だが、機能的には「名詞」であり、英語ではこれをAdjective noun(形容詞的に振る舞う名詞)としている

 形容詞との違いはWikipediaによれば、

形容詞は「大きいである」のように「~である」をつけることができないが、形容動詞は「不謹慎である」のように「~である」をつけることができる。

 とあるが、もう開いた口が塞がらないほど馬鹿である。橋本は幼稚園児レベルの知能だったのだろう。

 どう考えても、ooki-iの活用がooki-kuで、hukinsin-naの活用がhukinsin-deなのだ。そう考えるほうがすっきりする。
 なぜ、「である」を一個の要素だと思うのか。「で」が「ある」とセットだと思うのか?

 おなじ「で」だからといっておなじものとは限らない。名詞につく接辞「で」とナ形容詞の活用語尾「で」は別ものだ。

 すると、すっきりする。

大きくある ooki-ku aru
不謹慎である hukinsin-de aru
猫である neko de aru

 文法というのはすっきりしていなければならない

 これは最初の文法学者であるパーニニ(紀元前の人だ)が実践したことだが、日本ではいまだに普及していない(外人への日本語教育では普及しており、アホの極みの国文法など参照しない)。

 歴史的経緯などうでもよく、実際にどういう風に文法が使われているのか? が大事だ。

 歴史的経緯を大事にするあまり、形容「動詞」などという噴飯物の用語をつくってしまう。

 日本語とは本来非常に簡単な部類の言語である。

 しかしこのラビリンスのように無駄に回り道した国文法のせいで、すごい言語に見えてしまう

 動詞の活用も実際はほぼ2種類しかない。
 何段活用がーとかいうのは要らない。
 国文学者は母音で考えることができなかったため、このようなことになった(英文法をまねしておきながら肝心の英文法的発想法が生まれなかったのも知能の低さを物語る)。

売る ur-u ur-a ur-i ur-e ur-o
着る kir-u ki-0 ki-0 kir-e kir-o

 不規則動詞も、来る、する、問うの三つしかない。

来る kuru ko ki kure koi
する suru si si sure siro/seyo

問う ->過去形がtottaが正式だが、通常、tootaとなることが多い。 

 これにしても、英語のようにまったく別の変化(be are isのような)ではなく、規則動詞とほぼ変わらない。
 また、形容詞には不規則なものはない。

 後置詞にしても、英語の前置詞のように潤沢ではなく、常用するのは「を」「に」「から」「へ」「で」「と」「まで」しかない。