日本語は難しいか。
むしろ簡単な部類であろう。
まず発音は簡単な部類だ。これは確定している。
文法も例外がほぼなく、助詞をくっつけていけばよく、語順やイディオムの憶えゲーを強要されることもない。
語順や主語を明示する必要もない。時制も二個しかない。
文法も間違いなく簡単な部類だ。
助詞の数も少なく、英語は多い部類だが、英語よりも少ないロマンス語系列と比べても少ない。
「は・が・を・へ・は・から・で・と」を憶えれば99%カバーできる。
憶えることが圧倒的に少ない。
敬語や丁寧語も、英語にもある。ない言語などない。
日本人がネイティヴでないから気づかないだけで、どの言語にも男言葉女言葉、敬語、謙譲表現がある。
実際かなり流暢なガイジンも敬意表現がイマイチできていないのは、日本語が難しいからではなく、各言語において文化的文脈も要求される敬意表現は難しいってことで、日本語特有の事例にはならない。
むしろ語尾や語句の入れ替えで簡単に表現できる分日本語は簡単だ。
英語の場合、センテンスや言い回しで表現せねばならず、教育の有無に左右されうる。
境界知能でも丁寧語が使えるのは日本語くらいだろう。
アメリカの境界知能は過去形と完了形を区別できない(ネイティヴでも小学校低学年くらいまでは区別できないという)そうだ。
だから階層による言語の違い(教育格差)が日本語にはない。
どの言語も喋り方で階層がわかるのだが、日本語では生活保護世帯なのか年収1億円なのか、日本語のしゃべり方だけでは判断できない。
また日本語は母音が多いせいで発話速度が遅く、同一時間内に伝達できる情報量が少ない。
これを補うために主語を省略する文法が発達したが、このせいで相互理解に支障を来すようになった。
この点では「難しい」かもしれない。
しかし、難しいのはこの点くらいしかない。
また日本語以上に短時間あたりの情報量が少ない琉球語では主語は明示しないのがデフォルト文法になっているので、主語省略に慣れた日本語話者でも琉球語(沖縄弁ではない)の理解は困難を極める。
漢字も難しくはない。むしろ表語文字なのでわかりやすいとさえ言える。
英語も結局はスペリングを憶えることになる。
フランス語由来の単語は余計なhが入っていたりして、イラつくし、漢字仮名交じり文が取り立てて難しいわけではない。
アラビア語なんて母音振ってないから(子音しか書かない)ノンネイティヴには大きな壁が立ちはだかる。
むしろ書いたとおりに読むというドイツ語やイタリア語が珍しいケースだ(チベット語なんてほぼすべての単語が書いたとおりに読まないというふざけた仕様だ)。
では日本語は簡単なのはわかった。
表現の幅が広いだろうか?
狭い。
英語や中国語のように罵倒語が全然ないし、形容詞の数も少ない。
抽象語句はほとんど英語か漢語由来で乏しい。
日本語ラップがギャグにしかならないのは、そもそも表現の幅が狭いからだし、575なのも、それ以上長い文に日本語の表現力は耐えられない。
韻の問題ではない。
また表現力が広いのなら、西洋語を訳するのに漢語を使う必要はなかったわけだ。
語尾が豊富というのも、嘘だ。
「じゃ」という老人語を実際に使う人はいない。
実生活で「にゃ」と語尾につけるやつはいない。フィクション日本語である。
それが許されるなら英語だってどうにでもなる。
主語だって、フィクションなのだから、英語だってIではなく、似非ドイツ人がIchだけドイツ語風に言ってもいい。
もちろん日本語よりも表現の狭い言語はたくさんあるだろう。しかしながら、文明語、先進国の言語としては、狭いと言わざるを得ないと思う。
日本語は音も文法も簡単な部類で、記述は若干難しいが文字種が多いだけで記憶力のよい人間には足かせにならないし、フィクション日本語がゆるされるなら、ほかの言語もどうにでも変な言い回しはできるので表現の幅が広いとはいえず、言語の抽象度が低いため哲学表現に難がある(多くの日本人が勘違いしているが、抽象=曖昧ではない)。
難しいとすれば、音声伝達の便宜上発生した主語省略がコミュニケーションを阻害する点だが、これはネイティヴも困惑するケースが多く、言い逃れや責任回避「そうは言っていない」「誰とは言っていない」に悪用されている。
私は英語が少しわかるだけだが、英語の小説を読むと英語の表現の幅に驚く。
日本語ではこんな表現は出来ない、と思うことが多いが、逆に日本語の表現を英訳するのが困難というケースにはほとんどあたらない。
川端康成の有名な一説も、英訳困難と言われるが本当だろうか?
誰がどう考えても、
(電車が)国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった。
の意味なので、主語省略があるだけで、至って普通の文である。これを特殊な文と思うことが間違っている。