英語と日本語の違いを「主語が明確」とか「論理性」だと思っている奴がいるが違う。
最大の違いは「冠詞の有無」である。
冠詞は日本語にも、日本語が巨大な影響を受けた中国語にも存在しない。
冠詞はその構造上、近代を生み出した一つの要因だと私は思っている。
とはいえ、冠詞が異様に発達しているのはゲルマン語だけである。フランス語などにもあるが、そもそもラテン語にはなかったのでゲルマン系言語ほど発達していない。アラビア語にもあるが、アラビア語もalのみで不定冠詞はないし、格活用もしない。
ゲルマン語の古い形を残しているのがドイツ語だが、不定冠詞と定冠詞があり、冠詞は格によって活用し、所有格とは別に所有冠詞なるものがある。冠詞が異様に発達しているのだ。
この冠詞の有無こそ、近代を生んだのだと私は思う。
たとえば、英語は構造上、誰のものか(my,her...)、誰のものでもないのか(a,the)を明記せねばならない。これをしないと意味が変わってしまう。
my chicken,a chicken,the chicken,chickenではchickenの指す意味が同じではない。日本語では私の鶏だろうが、その鶏だろうが、鶏という単語自体の意味は不変であるが、英語ではそうはらない。冠詞によって、続く単語の意味が変質する。
たとえば、a sunは「どこかの一個の恒星」だが、the sunは「私たちが日常見ている太陽」である。ゆえに、冠詞を明記しないと文意がおかしくなる。
そこで冠詞を明記するのであるが、これによって、近代に大事な「所有」がどこにあるのか、それが大事な何か(the)なのか、近代立法に大事なことが言語構造上自然に導かれるのだ。
英語の取説には「your device」とか書いてある。
そりゃ私が購入したのだから、マニュアル記述者からすれば、「あなたのデバイス」である。ここらへんにも近現代の契約が明確さがある。
日本語マニュアルは当然だが、「デバイス」としか書いておらず、責任の所在が明快ではない。
さらにマニュアルで面白いのは、産業用途の英語マニュアルには製作者のサインがしてあるものがあるが、日本語のものでは一切見たことがないことだ(ちなみに中国語ではある)。
ただサポートの電話番号が書いてあるだけで、責任の所在が不透明だ。サポート要員は自分で書いたわけでもないマニュアルのクレームを受ける。大変な仕事だ。
この責任の所在が不透明であることは、同時に権利者の所在も不透明であることを意味する。これではイノベーションも生まれえないし、近代の契約社会も誕生し得ない。もっとも、現代日本はまだ属人的で、プレ契約社会、西欧で言えば17世紀くらいの契約社会だと思うが。