罪を憎んで人を憎まずというが、まことに日本的で大嫌いな言葉だ。
出典は漢籍で、孔叢子(くぞうし)というが、孔叢子なんて日本人の100人のうち1人くらいしか知らないんじゃないかぐらいマイナーな儒学の漢籍である。が、この言葉は日本人にすこぶる刺さったらしく、よくきく。
出典の知名度の対比が、なおさらこの言葉がウけたことを印象付ける。
たとえば、孔子の言葉を一つでも言える人の方が少ないのではないか? 私は言えない。
知名度に対し、孔子の教えはみんな知らない。
日本人は儒教が昔から嫌いだったからだ。実際、儒教道徳は江戸時代に朱子学が広まるまで、とんと広まっていない。
寺は全国津々浦々にあるのに、孔子廟がない、というのがすべての答えだ。
で、私は逆だと思うんだよね。
憎むべき罪ではなく、人だ。
なぜかというと、罪は万人が犯しうるのである。
たとえば、屠殺も一種の罪かもしれない。罪=犯罪ではない。誰かに危害を加えてしまうこと全般を罪だと思う。
ジャイナ教徒は生物を殺してしまうことをすべて罪と考えている。キリスト教ではそもそも現在を人類は負っている。
つまり、罪は誰でも犯すのだから、その罪に対してどのような態度をとるのか、それが人の話である。
交通事故は誰でも加害者被害者になる。
加害者になったとき、どんな態度をとるのか。どうやってその罪をあがなうのか。犯罪じゃないからといってうそぶき続けるのか。
そう。
罪に対する視座は個人で異なるのだから、憎むべきは人の方だ。
きちんと罪をあがなうなら、それは赦される。しかし、あがなう気がないのなら、赦しは与えられるべきではない。
孔叢子の「罪」がそもそも、罪科のみを指しているとは私には思えない。だってこれ儒教道徳の本だからね。法家の本なら、罪科を指していそうだ。
儒教だから、おそらく、法の根拠はないが、礼にもとる行為なども含んでいるに違いない。
これを罪=罪科=犯罪行為のみに限定する考えがそもそも間違っている気がするし、それが広義の罪であっても、いや、なおさらそうであるほど、憎むべきは人の方だ。