憂邦烈士連合会@ソロプレイ

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なぜ古代ギリシャ人ばかり活躍するのか?


 ほとんどの人は疑問に思わないのかもしれないが、高校の時から世界史が大好きな私はずっと疑念を抱いてきた。

 なぜ、古代ギリシャ人ばかりが古代地中海史(ヨーロッパ、アジアという区分自体を使いたくない。当時は地中海で一つの世界だろうし、もっといえばベネチアが滅ぶまではそうだっただろう)では活躍するのか? と。

 たとえば、ペルシア戦争だ。

 パッと考えておかしくない?

 都市国家と当時世界最大の帝国の戦争自体が成立し、都市国家側が勝利するとかありえるのか? と。今でいえば、アメリカと北朝鮮くらいの国力差だ。

 どう考えても変だ。

 クセルクセス1世は親征したというが、する? ほんとに?

 そして、いろいろな本を読んでしったことには、ペルシア側にはペルシア戦争についての言及された資料がないらしい(それどこころか非ギリシャ語資料に記述は0と等しい。旧約聖書にもない)のだ。ヘロドトスが歴史で記したかったことがペルシア戦争なのと対照的である。

 高校世界史では、世界史上の重大な戦争扱いだったはずだ。

 ヘーゲルもゲルマン世界の自由を勝ち取った大戦争とかいうアホみたいな理由でペルシア戦争を称揚している。

 はて、本当にペルシア戦争はあったのだろうか? 捏造なんじゃないのか??

 さらに、勝利というのもベトナム戦争ベトナムアメリカに勝利した、という意味での勝利だったのではないか?
 ペルシアにギリシャ世界は蹂躙され、崩壊したが、ペルシア側が撤退したので形の上では勝利、というように(実際、ペルシア側はペルシア戦争には言及しないが、ギリシャ人の住むバルカン半島は領土だと記している)。

 で、なぜこんなことになるのか。
 可能性は二つ。

 1.ユーロセントリズム

 2.資料自体の不足(ギリシャ語文献が多く残っている)

 まず1だ。

 これは日本史でも多い。
 たとえば、戦国時代の資料。日葡辞書とルイス・フロイスの日本史が絶対的権威としてふるまっている
 これもかねがね疑問で、文化様式もかけはなれたガイジンの書いた日本史がどこまで信用できるのだろうか?

 外の視点?

 なら、なぜ朝鮮人や中国人の資料を参照しないのか?
 ほとんどソースとして参照された本を見たことがないのだ。どいつもこいつもフロイスのいうことはすべて真実みたいに言う。

 日本一鑑という中国人資料もあるが、フロイスなどのイエズス会資料より数段格落ち扱いで、ほとんど言及がない

 日葡辞書もこれで当時に日本語がわかる! とかいうが、ポルトガル人の勘違いとか耳の違い(発音のききわけ)とか少しも考慮していない。

 歴史家はアスペ気質が多いので、こういう簡単なことに気づかない。すぐ、資料をうのみにする。

 特に戦国時代の研究は歴史的価値があまりない(エンタメ的価値はあるかもしれないが、現代日本へとづつく民族的意味での日本人を産んだ江戸時代、日本列島の始まりである古墳時代などと比較して研究価値は相当に低い)ので、特にそうだ。

 で、こういった西洋中心の資料偏重が地中海史でも頻繁に起こっている、というのは想像に難くない。

 次2だ。
 そもそもギリシャ語資料はやたら残っており、非ギリシャ語資料があまり残存していない、という可能性だ。
 特にメソポタミアで大量の粘土板が発掘されるまえはもっとひどかった。
 全ての英知はギリシャから世界へ広まった、といわんばかりの西洋中心史観が形成されていた

 近年ではペルシア側の粘土板も多く見つかっているようで今後研究は変わってくるかもしれない。
 しかし、疑問点はなぜギリシャ語資料ばかりが残っているのか? だ。

 たとえば、エジプト史を記したマネト。

 彼らはエジプト人だがプトレマイオス朝の要請でエジプト史を記したため、ギリシャ語で著作された。
 しかし、彼以前にエジプト人がエジプトの言葉で歴史を記さなかったのだろうか? いや、きっと記されており、マネトはそれを参考にしたに違いない。

 で、重要なのはマネトの原著も写本も残存しておらず、引用として知られているということ。

 そして、ほとんどのギリシャ思想家の著作が目録だけで現存していないものがほとんどだということ(世界史で多くのギリシャ思想家を習うので古代ギリシャはすごい先進国に見えるが、ほとんどの思想家の著作は現存していないし、そういう人がいた、程度の話である)。

 そう。ギリシャ語資料は物自体が残っているわけではなく、伝来してきた、ということだ。

 だっておかしいじゃないか?
 プラトンアリストテレスに匹敵する思想家が他の地中海世界には皆無だったはずがないではないか! おそらく、いたはず(古代中国が似たような状況)だ。

 しかし、彼らの著作は失われ、目録すら残らなかった。

 ヘロドトスにしても、彼はペルシア生まれのギリシャペルシア人であって、史記述の伝統がギリシャ人だけにあった、なんて変なことがあるだろうか??

 もっともペルシア人自体はソクラテスのように文字はあまりよいものではない(ゆえにソクラテスは著作がない)と考えており、ササン朝になるまでペルシア語が筆記言語として洗練されることがなかったのは事実だが、アッカド語という数千年使われた筆記言語があった。
 こっちを使えばよかった。

 なにも新興言語のギリシャ語を使う理由などない

 単純にヘロドトスギリシャ人の多い地域(元ギリシャ植民地だったので)生まれだったので、一番堪能な言語で書いたに過ぎないはず(というか田舎者だったのでエリートの言語であるアッカド語アラム語が使えなかった)だ。
 ではなぜギリシャ語資料は多く伝来できたのか?
 ギリシャ語が優れていた?

 そんなことはない。なぜならペルシア語とギリシャ語とは言語的には兄弟関係にあったからだ。

 これは東ローマ帝国のおかげ、といえる。

 ユーロセントリズムでは西ローマの崩壊でローマ帝国は滅亡したことになっているが、実際にはローマ帝国はほろんでおらず、東ローマ部分はそのまま15世紀まで残存する。
 しかも、堅牢な要塞都市である首都コンスタンティノープルを完全攻略できたのはメフメトIIだけである。

 そして東ローマでは一貫してラテン語ではなくギリシャ語が優勢だった、ということ。
 そう、コンスタンティノープルギリシャ語資料は1500年も温存された(逆にあれだけ強勢だったはずのローマ人のラテン語著作物がギリシャ語著作物に比べて少ない不自然さもそういうことだ)。

 こういったケースはほとんどない。というか世界史上皆無だ。どの地域も征服者や侵略者が入れ替わり立ち代わりするため、多くの文献が散逸する。

 唯一の似たケースがイギリスで、イギリスではノルマンコンクエスト以降国内がずっと安定的(クロムウェルの革命などフランス革命黄巾の乱といった他の国の内紛に比べればゴミみたなもん)で、戦国時代のような時期もなかった。

 このせいか、だいたいヨーロッパの中世を調べると9割がたイギリスの資料である。フランス、ドイツの資料は思ったほど存在していない。

 ちょっと変わっているのは中国だ。

 中国は古代ギリシャ資料と同じく、膨大な資料を残している。
 行政文書だけではなく、思想書や楽府(民間音楽・詩歌)、娯楽(すごろく、賭博)などの資料も比較的残存している(漢代の建造物は何一つ残っていないが)。

 異民族に征服されるのが繰り返された中国大陸でなぜ膨大な資料(日本の古代や東南アジアなんかは資料がほぼ0なので中国人資料に頼るしかないのは、古代ギリシャ人資料が古代地中海史で幅を利かせているのとまったく同じ)が残ったのか。

 理由は漢語の絶対的な地位である。

 どんな征服王朝も結局は行政言語に漢語を使わざるを得ず、征服者たちは代を重ねると漢民族化していき、最終的には同化してしまったことにある。
 ヨーロッパや中東、インドなどでは圧倒的な文化言語はなかった。ラテン語サンスクリットが強かったのは事実だが、「それしかない」ではなかった。
 しかし、東アジアでは漢語以外の選択肢がなかった。

 そもそも、膨大なライブラリ、語彙、伝統、そしてそもそも文字体系(日本語も漢字の派生文字を使っている)を有するのが漢語しかなかったんだから仕方がない。

 このため、地中海史ではマネトのようなおそらく古代エジプト語を母語とするエジプト人ギリシャ語で著作するとか、中世アラビアのように、ユダヤ人もペルシア人もみんなアラビア語で書くとか、そういうことではなく、そもそも著者の民族性や宗教性が問題にされない。

 結果、焚書坑儒儒教の書物が平気で漢代まで残っているからこれはうそだと思うが)のようなことがあっても、漢語資料はなくならない。

 なぜなら燃やす側も漢語を使っているからだ。
 これが違うと容易に文献は消失する。

 たとえば、アステカ帝国をスペインが侵略したとき、そこには膨大な文書が存在したが、現在はたった三冊しかない
 スペイン人が燃やしたからだ。スペイン人にとっては読めもない異教徒の書である。燃やしてもいい。

 たまたま生き残ったのが三冊である。

 当時のテノチティトラン(アステカの帝都)は30万人の大都市であったと推測され、これはコンスタンティノープルやパリに匹敵したし、当時これほどの人口を持った都市は日本にはない。

 この規模の都市ならば、どう考えても膨大な行政文書がなくてはならない。

 商業文書(そもそも最古の文字自体が契約・会計のために開発された)もあったはずである。
 それがたった三冊だ。
 文献は容易に散逸する。

 もしペルシア戦争の結果、ギリシャ人がペルシア語を話すようになっていたら、おそらくユーロセントリックな世界史は変わった形になっていたに違いない。
 アリストテレスはペルシア語で書いたかもしれない。
 こうなると、ゲルマン世界(主に差別主義者のドイツ人だが・・・)はギリシャをヨーロッパ発祥の地といわず、後年ドイツ人が躍起になったように、最初から、アーリアン(ペルシア人の自称であるイランとはアーリア人の意)至上主義に走っていたかもしれない。

 また、ペルシア語が公用語東ローマ帝国ペルシア人思想家の書物が温存されたかもしれず、人類史上もっとも偉大な思想家の座はアリストテレスではなかった(私には少しも彼が偉大には見えないのだが・・・偏見まみれすぎて。プラトンのようなリベラルさがない)かもしれない。