もし、キリスト教がローマの国境にならなかったならば、そして、スキタイ南下以後の中国のように、ゲルマン南下後も、再び東西ローマ帝国が統一されていたならば、おそらく世界は古代から意外と進歩がなかっただろうなと思う。
これはキリスト教だとか、世紀の大ウソつきのヴェーバーのプロテスタント礼賛を支持するのではない。
逆だ。
ローマ人が当初恐れたように、キリスト教は悪魔の宗教であった。
特に当時の文明世界(アナトリアとバルカン、エジプトあたりのこと)から隔絶された結果、カルト化していったカトリックは特に先鋭化していく。
同じキリスト教でも、オーソドックスはマシなほうで、オーソドックスの総本山だったビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、本来異教徒であるはずのペルシア人(当時はゾロアスター教徒)の方がカトリック教徒のゲルマン人よりも信用できると考えていたフシがある。
アルメニア人もキリスト教の一派であるアルメニア正教徒であるが、彼らもまた、ビザンツ帝国の次にペルシア人を身近に感じていたフシがある。
西ヨーロッパの蛮族たちは文明人として考えるに値しないと捉えていたと思しい(アルメニアを欧米人はヨーロッパに含めたがるし、地政学的に現代アルメニア人もそれに従っているが、紀元前からイラン文化圏であるので、イラン文化の影響が強い)。
この傾向は長く続き、ペルシア人がイスラム教徒になったり、アナトリアにトルコ人が侵入し、イスラム化されたあとも、ビザンツ帝国は一貫してカトリックよりもイスラム教徒の方を文明人とみている。
一応、カトリックが力をつけてきたので、協働はしているが、十字軍の件など、とても同じ文明人とはみなせない。
また、ペルシア人自身も現在に至るまで、アラブ人を格下とみる風潮がある(南アラビアは8世紀になるまでゲルマン世界のように外界だった)。
イスラム化したあとも、アルメニア人やモンゴル人、ギリシャ人に対するペルシア人(イラン人)の態度とアラブ人に対する態度はやや異なっている(屈折している)。
現在の世界史では蛮族扱いのモンゴル人にはペルシア人はむしろ敬意を払っているようにさえ見える。
もっとも、これは当時のモンゴル人が少しも蛮族ではなかったことを示す。
そもそも、チンギスハーンは世界で最初に「兵站」と「情報戦」をまともに取り扱った帝王(意外だが、武器や戦術が強かったわけではないのだ。対日戦や対越戦での惨敗は当時の水準では兵站問題が解決できなかったからだと思う。)であり、ロシア語に残るモンゴル語の残滓が基本的に行政や経済に関する高等語彙なのも、モンゴル人は蛮族ではなかった証だとは思う。
話が逸れたが、当時の世界でキリスト教――特にカトリックは野蛮の極みであった。
このため、多くの周辺民族はキリスト教にドン引き(ローマ人は当初、とんでもないユダヤ教のカルトがローマで流行っていると恐れたため、弾圧した。これは当然で、神は一柱しかいないという彼らの主張は現代日本で創造論を主張するのと同じことだった)であり、カトリックに自主的に改宗するようなのは、ゲルマン人のような蛮族に限られた。
逆に異端扱いされたネストリウス派は、インドや中国でさえ受け入れられた。
これはのちに力をつけたゲルマン人がネストリウス派をこきおろす歴史を書いたせいだが、当時の文明人である北インドと中国人が受容していることから、文明的とみなされていたのは疑いない。
話はそれたが、ヨーロッパの躍進は、ようするにローマの破壊にある。
ローマの遺産を徹底的に破壊した。この破壊がどれだけ人類史上苛烈だったかは他の地域と比べればわかる。
エジプトでは度重なる異教徒の侵略にもかかわらず、コプト教は生存している。イランでもゾロアスター教徒は少数だが生存している。
中国においては、儒教の国教化をもってしても、道教も仏教も殺すことはできなかったばかりか、共産主義ですら宗教を撲滅できなかった。
これはソ連も同じだ。
ソ連はロシア正教を殺せなかった。
しかしながら、西ヨーロッパ世界ではキリスト教以外の宗教は中世の段階でほぼ撲滅(フィンランド人など僻地ではもうしばらく異教が崇拝されたが、資料はほとんど残っていない)された。
ドルイド教もローマの宗教も、イシス教やミトラ信仰も、全部だ。跡形もなく、だ。
これは異様なことだ。
カトリックの異様さは、新大陸の文書のなさにも表れている。アステカ帝国の膨大な資料はもはやたった三冊の本でしか残っていない。異教の文書として徹底的に燃やされたのだ。
ポルポトですら裸足で逃げ出すような、カトリックもしくは、のちにカトリックの母体となるカルト集団とゲルマン人の野蛮さが融合した宗教的破壊活動は人類史稀に見る破壊であった。
これに比べるとモンゴル人は何も破壊していないに等しい。
ビザンツ帝国(東ローマ)ではその無慈悲なまでの破壊活動がなく、だから、東ローマは最後まで古代帝国のままだった。
ローマ帝国の遺産を野蛮で蒙昧なゲルマン人カトリック教徒は破壊しつくした。
その結果、逆にゼロスタートになった。
西ヨーロッパは一回、有史以前、つまり古代帝国よりも前の段階まで地ならしされてしまった。
今日のヨーロッパ文明はギリシャ文明と何一つ地続きではなく、一度破壊されて再スタートした「五つ目の文明」といえるかもしれない。
結果、余計なしがらみがなくなった(古代エジプト文明はメソポタミアと違い、平穏な期間が長かった反面、安定した政治状況が続いたせいでしがらみが多く、定形化や様式化、形骸化があまりにも進みすぎ、メソポタミア地域に比べて先進的なものを何も生まなかった)。
だから、ゼロスタートは機械文明へ進んでいく契機になった一方、道徳も知識も失われたので、魔女狩りや異端審問といった古代帝国でさえやらなかったような文明以下の行為が横行した。
これは表裏一体だ。
無知がペストを蔓延させた。
当時ペストは世界中で流行っていたのだ。
しかし、中国でも、東ローマでもイランでも、西ヨーロッパほどひどい結果はもたらさなかった。
なぜなら、無知ではなかったからだ。
中世日本ですら疫病に対する対策はされていた。
部外者は村離れの小屋に一か月逗留してから入村することといったルールが定められていることもあったそうだ。だが、ヨーロッパ人にはそういった知識がなかった。ローマ人は知っていたが、それは失われていた。
ヨーロッパの絵画芸術が写実主義になっていくのも、文明ゆえの様式美がなかったからだ。エジプト人は写実的な絵が描けなかったわけでも、自由な彫刻がつくれなかったわけでもない。単に様式美が優先されただけだ。
しかし、西ヨーロッパでは様式美そのものが破綻していた。ローマから続く様式美は消えてなくなっていたのだ。
新しいことを始めるには旧弊を破壊する必要がある。
しかしそれは容易ではない。日本でも、元号をいつまでも使っている。典礼や行事で元号を使うのはいい(ネトウヨは元号に拘る謎)が、行政文書に使うのは間違っている。ようやく運転免許で是正されたが、一体何十年かかったというのか。
もちろん、野蛮なゲルマン人たちはわっていてやったわけではない。
野蛮だっただけ(このゲルマン人特有の野蛮さは人類の中でも特殊な地理的条件に住んでいることにおそらく起因する。ゲルマン人に次いで野蛮なスラブ人も、寒く乾燥した地域に住んでいるが、人類のほとんどは温帯か熱帯、乾燥帯に住んでいて、極寒の地域にはすんでいない。すんでいてもエスキモーのように少数で、ゲルマン人スラブ人のように大量の人口を抱えていない。また、容姿もゲルマン人スラブ人は特異である。人類は人種を問わず、基本的に黒い髪に黒い目だが、金髪に青い目というのはホモサピエンスの中では異常な容姿だ。なにか因果関係があるのではないか。古代ローマ人も古代ペルシア人も、黒い髪に黒い目だったのだ)だ。
だから、いったん暗黒時代に入ってしまう。
だが、しかし、この暗黒時代こそがのちの西洋の躍進を産んだのだ。プロテスタンティズムとか、ギリシャ以来の民主主義とかそういうことじゃない。全部間違いだ。
実際のところ、ローマ帝国と中華帝国はよく似ている。(私たちは全く異なるものと教えられるが)
たとえば、人糞は世界的に利用されたが、ローマ人もまた積極的に利用していた。中国人もまたそうだ。
マカートニー使節団がやってきた際、この人糞の利用を臭いと非難しているが、人糞を利用するのはエコであり合理的であった。
ところが、ローマ帝国なきあとこういった利用は失われた。同時に公衆衛生もまた失われた。
結果的に人口増は遅滞する。
ところが、この遅滞は最終的には、よい方へ作用した。
というのも、合理的な人肥を使っており、公衆衛生のしっかりした中国では人口が増え続けたのだ。
そしてこの人口圧は、中国の機械文明化を遅らせたどころか、後退すらさせてしまう。
一方、西ヨーロッパは人口増に乏しかった。人口パワーではむしろポーランドやオーストリアといった東側が優位だった。定期的に遊牧民(ブルガール、マジャールなど)とスラブ人が流入してきていたためだ。
イタリアとバルカンは北アフリカ世界とむしろ結びつきが強かったので、ゲルマン世界ほど暗黒の世界ではなかった。
このため、イタリアは地中海世界から学問を仕入れていたのでルネサンスの契機にはなったものの、機械文明的にはゲルマン世界に後れを取る、というか、多くのイタリア人の実績は事実上、ゲルマン人たちに簒奪されていく。
たとえば、簿記を発明したのはイタリア人だったが、これはのちに英仏によって世界の経済を支配するために利用される。
そう。イタリア半島は二度、ゲルマン人に簒奪されたのだ。
イギリスでは人口が爆発的に増えたのは産業革命期だ。
遅滞したゲルマン世界で人口が増えるには機械文明化は必須事項だった。
18世紀中にイギリスの人口は爆発的に増えた。
当時の日本よりずっと少なかった人口が100年足らずで追い抜いてしまう。一方、文明の崩壊がなく、少しずつ進歩していた日本では17世紀前半に人口の爆発的増があり、中国同様、機械文明はむしろ遅滞した。(牛馬に犂をつけていた農作業が、なぜか人力になるのだ)
ポーランドがゲルマン人に支配されていくのもこのころだ。ゲルマン人人口が爆発的に増えていくのだ。
これは爆発的な人口増により対外膨張政策が始まったことを意味する。そして、西洋人は多くの機械兵器を持っていた。
一方、中国では17世紀にはじまった人口増がとまらず、増えすぎたせいで公衆衛生は低下し、治安は悪化し、文明の機械化などとうていできない状況だった。
この辺に日本の19世紀後半の躍進の理由もある。
というのも、日本はほかの世界と異なり、17世紀初頭に爆発的増加した後、人口増は停滞していたのだ。これは鎖国政策により、完全に文明の進歩が停止してしまったからだろう。
江戸時代はほとんど何の進展もなく200年を超えて運営されていく。
学術や技術、農業土木、芸術などは17世紀以降ほぼ進歩がなかった反面、経済に関しては大いに進展した。
この経済の進展は最終的に全国を統一するのに役にたったが、商業従事者を生み出した以外、人口増には寄与しなかったし、芸術や学術の進展にも寄与しなかった。
そこに明治維新以後、機械化政策は始まった。
結果、産業革命中のイギリスと同じく、急激な人口増が発生し、100年経たずに、2倍を超えてしまう。結果的にイギリスと同じだ。膨張政策が始まる。
もちろんこれは失敗するのは必然だった。
イギリスが世界の支配に成功したのは18世紀から19世紀に話だったからだ。
当時、世界は人口増に苦しんでいて(インドもそうだ。17世紀のインドは人口増により、内戦の続く状態にあった)、イギリスはその苦を免除されているに等しかったことと、機械化文明と機械化の遅滞した旧弊な帝国とでは戦力に雲泥の差があったことだ。
だが、20世紀中ごろには、人口増による苦しみは緩和されつつあった。
啓蒙政策という名の奴隷政策で、イギリスが世界中に武器と知識をバラまいていたので、日本側が圧倒的に優位というわけでもなかった。
アヘン戦争時の清とイギリスでは抜き差し難い差があっただろうが、日中戦争時の日中の差はそれほどではなかった。
また、政治機構自体がゼロスタートではなく、江戸時代の遺産の上に西洋式のものを挿し木したキメラだったことも関係するだろう。
これは現在も尾を引いている。中国の現政府は清とは全く連続しない。
国民党は旧来の制度を引き継いではいたが、内戦でゼロリセットされた。
日本の現政府は大日本帝国の屍の上に継木されている。土台はハナから腐っている。