一見するとギリシャ文明は紀元前に多くの詩、戯曲、歴史書、哲学書を書いており、大変優れた文明のように見える。実際、西洋人はそう思ってきた。
しかし、実態は違う。
ギリシャ語文献が現代まで伝わったのは、ギリシャ語が途中で滅んだり、壊滅的打撃を受けなかったからだ。これはラテン語も同じ。ゆえに、ずっと写本がなされてきた。
単純にギリシャ語文献はギリシャ語が死語にならなかったゆえに、保存されてきただけで、「残った数」が多かっただけで、ギリシャ文明が優秀だったわけではない。
一方、古代に栄えた多くの言語は滅んでいる。
たとえば19世紀以降中東ではおびただしい量の粘土板が出土した。
現在も9割以上が未解読である。
そこには、未知の言語も多く含まれていたし、この粘土板によって、人類は、系統不明で、かつ、紀元前2000年頃には死語となっていたシュメール語の存在を知るのである。
それはこれまで人類が見たこともきいたこともない言語だった。なにせ、親類縁者が見つからないのだから。子孫も親戚筋も、現代社会には存在しなかった。
シュメール語は滅んだその後も長く書記言語としての命脈を保ったが、紀元を超えることはなかった。まあ、ラテン語もローマ帝国が滅んで1000年くらいの間が書記言語だったから、むしろ持った方である。
結局のところ、中東、地中海世界で生き残った言語はギリシャ語とペルシア語だけといってもよかった。ヘブライ語やシリア語、コプト語あたりはゾンビみたいなもんだった。
とはいえ、ペルシア語はアラブ人の襲撃を受け、文献は失われた。
これはローマがゲルマン人の襲撃を受け、文献の多くが消え去ったのと同じだが、ローマの場合、東ローマ帝国は16世紀まで生き残り、ラテン語文献、ギリシャ語文献を保存できた。これも大きい。
ゲルマン人の破壊が大きく影響していると思われるのは、はるかに巨大だったローマ帝国よりもギリシャ時代の文献の方が多く残存していることからも推察される。
もっとも、バビロニア語をこの世から葬り去ったのはギリシャ人のアレクサンドロスであった。また彼は一度ペルシア語も闇に消そうとした。
ペルシア帝国を居抜きで接収した彼は、それまでペルシア帝国が公用語的に使っていた、バビロニア語、エラム語、アッカド語、ペルシア語などを廃止し、そこ代わりにギリシャ語を使うことにした。
勘違いしてはいけないが、ギリシャ語が「文明語」になったのはこのときであって、古代哲学の時代は「地方の一言語」にすぎなかった。
漢語が諸子百家の時点ですでにほかの追従を許さない大文明語(結局のところ、19世紀以降に日本語が台頭するまで東アジアで漢語の地位を揺るがすものは何もなかった)だったのと対称的である。
アレクサンドロス最大の功績(?)は疑義のあるヘレニズムでも、世界帝国の建設(単にペルシア帝国を接収しただけ)でもない。
それまで2000年近く続いてきたメソポタミアとエジプトの伝統をほとんど灰燼にした点である。
エジプトではプトレマイオスが結局エジプトの伝統に吞まれてしまい、ローマ人がくるまで古代エジプトの伝統は生き永らえたともいえるが、エジプトのギリシャ化はコプト語や建築様式を見るに明らかである。
プトレマイオスとその子孫たちは、初めてエジプトを長期的に支配した異邦人勢力だった。メロエやエチオピア、ペルシアもかつてはエジプトを支配したが、半世紀ももたなかった。
そして、その長期的な支配が、3000年以上の歴史に終止符を打ったのだ。
おそらく、アレクサンドロスはチンギスハンや毛沢東もはだしで逃げ出すレベルの「文化破壊者」であった。
これは西洋人の評価とは真逆(彼らはヘレニズム文化を広めたと考えている)であるが、事実、彼以降、メソポタミアの文明語はすべて消え、19世紀に粘土板が大量に見つかるまで聖書の中のおとぎ話になってしまっていたのだから、どれほどすさまじい破壊だったかわかろうというものだ。
彼は既存の文化と文明を完膚なきまで破壊し、そこにギリシャ文明を移植した。何もなくなったところに種をまくのは簡単である。
ギリシャ文明がそんなに優れているのならば、アレクサンドロス以前に自主的に他民族も採用したはずだが、されていないことが何よりの証拠だろう。
アレクサンドロスはアレクサンドリアの図書館のイメージから、文化的な功績があるように見えるが、実体としては真逆である。
バビロニア帝国、アッシリア帝国、ヒッタイト帝国、ペルシア帝国、どの帝国もなしえなかった伝統の破壊だった。そしてそれができたのは、ギリシャ人が「野蛮人」だったからに他ならない。
文明人だったペルシア人は先行していたメソポタミアの文明に敬意を払っていた。
多くの碑文が多言語表記なのだ。
そう。文化の価値が毛ほどもわからないゲルマン人がローマ都市の価値がわからず破壊しつくしたのと同じく、ギリシャ人には多くの古代文明の価値がわからず、理解していたダレイオスにはできなかったことを無知蒙昧なアレクサンドロスはできたわけだ。
たとえば、ヘレニズムでギリシャ的な写実が世界に広まったと西洋人は言うが、そもそも文明国では写実は「下」であった。古代エジプトでもデスマスクは精巧につくられているし、ペルシアでもリアリスティックな金属製品は見つかる。マヤ文明でさえそうだ。
当たり前の話だが、どの文明でも写実はあった。
しかし、文明国では神にささげるものはデフォルメされてしかるべきだった。中国の饕餮紋のようなものが典型例だ。むしろ、デフォルメを知らず、写実一辺倒のギリシャ人はさぞや野蛮に見えただろう。
ヘレニズムはむしろ進んだ文明を後退させるものだった。
ローマにおけるゲルマン人こそが、ペルシア人から見たギリシャ人であった。
つまり、ギリシャ語文献の多さは、ギリシャ人のアレクサンドロスがギリシャ語以外の文献を破壊しつくしたから、というわけだ。
なので、アラブ人が古代文献の翻訳をやろうとしたとき、ギリシャ語とラテン語、若干のペルシア語以外にまともな文献はなかった。
ここにきてアラブ人たちは、その拡大の初期にペルシア語文献を破壊しつくしたことを後悔したかもしれないが、東ローマのような存在(保管庫)がない以上、どうしようもなかった。
アラブ人は、自分たちの足下に膨大な文献があることも、エジプトの砂漠にパピルスが埋まっていることも、知らなかったのだ。もし、知っていたなら、ギリシャ語文献をアラビア語訳することもなかっただろう。
というのも、近年は粘土板の解読も進んでいるからで、多くのギリシャ語文献の間違いが発見されている。
まあ、これは当たり前の話で、ペルシアの辺境の属州でしなかったギリシャには「伝聞」しかなかったのだろうし、当然だ。