アトリエシリーズはヴィオラート以降、全部ではないが、そこそこやってきた。
一番好きなのは黄昏シリーズだが、人気がいまいちである。
今度ソフィー2がリリースされたので、不思議シリーズは4作目となったし、ルルアが少し前にリリースされてアーランドも4作となった。
ライザに至っては主人公交代なく、トリロジー1作目の主人公が続投なので、3も主人公はライザなんだろう。
うん。人気がないわ。黄昏だけ続編がスキップされてる。
ただ、ロジー、エスカはアニメ化もしたし、ウィルベルはサブキャラ随一の人気で、左さんのキャラデザもよくて、キャラ人気は低くない。
なんで好きかっていうと、やっぱOPからいいよね。
なんでか不思議以降はアニメじゃなくなって残念なんだけど。
あとは終末世界という世界観もいい。特にシャリーのOPは素晴らしい。
マトリョーシカの楽曲とあいまって、最高だ。歴代糞作画だったアトリエのOPアニメをCGとエフェクトを多用することで魅力的に見せているのもポイント高い。私史上、テイルズオブシンフォニアのOPと並ぶ傑作だ。
ただ、作品単独でいうと圧倒的にトトリの完成度が高い。
アトリエの集大成というか一つの到達点だと思う。
vita版はおよそ売り物ではないレベルのバグだらけで、発売直後はフリーズ連発のクソだったが。
以降、アトリエシリーズは簡略化の方向へ進む。
アーシャまでは過去のアトリエっぽかったが、エスロジで複雑なマップが廃止。シャリーでは時間制限が取っ払われた。
ソフィーでは調合のパズル化が強まり、ワールドマップはさらに簡略化された。フィリスは似非オープンワールドみたいなことになったが、大不評だった。
FF10を思い出すね。今となってはちびキャラのマップ移動のほうがレアだな・・・。
しかし、旧来のアトリエっぽい部分は簡略化される一方、普通のRPGに近づく面もある。
黄昏では、日常ではなく、世界を救済する物語となった(アーシャはまだそうでもないが)。評判がよくなかったのでソフィーでは戻ったが、町のマップが無意味に広くなりはじめ、ライザでは本当に無意味に広い(一応続編なので、町のサイズ感については、最新作のソフィー2はライザよりもソフィー一作目に近い)。
また、ライザの性的なデザインが大変うけ、フィギュアの多さから考えても今後もこの方針でいくのだろう。
もっとも、男性向けで成功した最初はロロナだが、まだキャラデザの岸田メル氏は女性向けのイラストレーター(本人の性別、性向は捨ておく)だったが、トリダモノ氏は明らかに男性向けのイラストレーターだ。
この辺試行錯誤があったと思われ、どっちでもいけそうな、左先生(大好きです)、NOCO氏が起用されている。
シリーズとしては、ヴィオラートまでが「クラシック世代」(PS~PS2)で、ロロナからアーシャまでが「ネオクラシック世代」(4作。PS3)、エスロジからリディスーまでが「試行錯誤世代」(ゲームシステム、グラが最も安定していない世代。途中でコーエーに買収されたし)(5作。PS3~PS4)で、ライザ以降が「新世代」(PS4~)と言いたいと思う。
こう考えると、ルルア(アーランド4作目)やソフィー2(不思議4作目)が出た理由がわかる。
おそらく、ライザが肌に合わない層がいる。
彼らにはルルアやソフィー2をやってもらおう、というわけだ。
特に、ロロナとソフィーはライザに比肩する人気キャラ(アーランド内投票だとトトリの方が人気があるが、彼女の物語は表題作で完結していてつなげようがないのだと思う)なので、アーランドシリーズもロロナの家系の話として今後も継続しそうだし、ソフィーの物語も3,4と続きそうな気もする。
男性向け ライザ続編
旧来ファン向け アーランドシリーズ
両刀 ソフィー続編
ジェンダーとセックスは別だろ???
トランス女性がはびこる→女子スポーツが終わる→女子で荒稼ぎしているスポーツが廃れる→男子も消滅
たとえば、バレー。
日本のバレーは男子は人気がなく、女子は人気が高く、金満なので、日本開催がすごく多い。まあ、スポンサー料とかもガッポガッポである。で、男子バレーはそのおかげで生き残っているようなもんだ。
これがトランス女性だらけになってみ。誰がみんの???
女性だって見ないだろうし、男はもちろん見ない。
どこにも需要がない。
てか、そもそも精神的性別(ジェンダー)と肉体的性別(セックス)を混同しているのが大嫌い。
そりゃ日常生活は精神性重視でいいけどスポーツなんて、フィジカル以外何も問われないものだ。だから肉体的性別だけで区別するのが妥当だ。
スポーツに精神性を問うのならば、彼は思想が危険だから出場停止とか成立するのか? まあ、してるけどもね。そもそも、それが間違いだよ。
あともうひとつ間違い。スポーツは崇高なものでもなんでもない。「興行」だ。
だから一番優先されるのは「ウケ」で、だからトランス女性を出すのは興行的に間違っている。
円安と上級国民
円安は上級国民にとっては得しかない。
海外比重の大きい大手企業は儲かる。外国人が株を買うので株価も上がる。
そして、上級国民はドル建て資産なので、円安になればなるほど資産が増える。
一方、一般市民は損しかない。
日用品や食料の輸入比率の高い日本では円安は即物価高である。
これが一昔前なら、企業は儲かった分を給与アップにしていたが今は役員報酬とか配当しか増やさないので、一般市民には「何一つ得がない」。
しかし、円安が経済を好転させるとかアホなことばっかいうのだ。
でも、こんなこといつまでも続けたら一般市民も資産をドル建てにし始めるよ。政府はここで預金ではなく、投資させようとしているけど、一般市民が円建て資産なんてしないと思うよ。
シビアだからね。日本人ほど小金にうるさい国民はいないよ。その代わり大金には無頓着で、日本政府の財政酷いことになってるけども。
貯蓄が多いのもシビアだからだよ。これを利上げとか利下げでどうにかなると思っているのは御目出度いアタマだ。
じーさんばーさんは知らんけど、若い人は円に幻想をいだいていないしね。
だって、今の20なんて、物心ついたときは失われて何年か経っていたわけで、ブイブイ日本なんて知るわけもない。
だからバブルリバイバルとか、あの頃はよかったとかで洗脳しようとしてるけど、無理。
さらに、利上げはできない。なぜなら企業が返済額が増えて給与が下がるからとかアホマスコミが政府と日銀の代弁をしてたけど、んなわけない。
法人税がさがりまくっているんだから、配当と内部留保に回してるのを利子に回せばいいだけ。
そこで従業員の給与を減らすというその発想自体が、日本の30年の停滞を招いたのだ。
安かろう悪かろうで人を雇うリスク
www.sankei.com
無暗に安い商品は悪い。安かろう悪かろうは常識だ。
そしてこれは人材にも当てはまる。日本企業は一貫して、安く雇用しようとしてきた。当然だが、安い人材は悪い。安かろう悪かろうは雇用にも当てはまる。
なぜわからないのか??
消費者が、安くて品質が高級品並を求めたら、そんなの無理だというだろう。人材も同じ。安くて有能なんてのはない。
命の授業
命の授業とか言って、と殺して生徒に食わすのはアホのすることである。
いかにも、身近に鶏をつぶしていた時代を知らん馬鹿教師が考え付きそうな話だ。
私の祖父は別に肉を食えなかったわけではないが、自分でつぶした鶏は食わなかったそうだ。
私の幼少期も鶏はいた(卵用で食用ではなかった)が、昔は各家庭で鶏を飼って、父親がつぶして、母親が捌いた。だいたい羽をはぐまでが父親の仕事で、母親の仕事はまあ、行程は多いが、今と変わらない。
そう。
「自分でつぶしたもんは食えん」という人は昔からいたし、自宅で鶏を絞めていた時代からいたのである。
なので、生徒たちが自分たちの目の前でと殺された豚や鶏を食えるわけがないんである。その感性はあたりまえなのだ。
祖父も、子供たちに見えるように鶏を絞めたりはしなかったのだ。だから、18歳で大学へいった父は鶏の締め方を知らない。私も知らない。
しかし、昔であれば、大学へ行かずにそのまま地元にいたわけで、父親から締め方を習ったに違いない。で、それは少なくとも12歳までに習うことではなかった。
で、命の大切さを知りたいならば、私はサバイバルでもした方がいいと思う。ボーイスカウトみたいなのはどうにも日本でははやらんな。
自分の命の大切さを痛感したら、他人の命も配慮できるだろう。
教師はズレたやつが多いが、この手の授業をする教師もまあ、大概である。
理由は判然としていて、「生徒のことを真剣に考える先生」というのは実は「公僕としての教員」には全く不適格なのである。寺子屋でもした方がいい。
なぜって?
そりゃあ、生徒40人の未来と人生と命について日々考えてみ?
あたまおかしくなるで。自分だけの人生でもあたまおかしくなるやつがいるのに。実際教師はうつ病の多い仕事だ。
なので、生徒に対して真剣な先生は、まあ、潰れてしまう。円満退職までもたないんだね。
だから結局、「大して生徒のことを考えない」やつがのさばる。
生徒の興味がないから、教室が荒れていても定時になれば知ったことではないし、卒業したらはいバイバイ。心を砕くこともないから、それで病んだりもしない。
生徒の人生に無責任だから、責任感につぶされたりもしない。
40人の人生の一部を預かるというのは普通の大人には重圧である。夜回り先生だって、結局駄目になってしまったじゃない?
真逆のヤンキー先生の方は実績を踏み台にして議員になって、なあんだこいつ全く生徒に関心なかったんだなあと思った。
確かに議員になって教育改革するならわかるが、別にする気もないようだから。
デジタルの特許
デジタルの特許はアホみたいだ。
今ニコンがREDからボディ内Raw記録の特許侵害で訴えられているが、そんなもんが特許として成立しているのがまず馬鹿みたいだな、と思う。
それってRaw形式のデータをカメラに搭載されたストレージに記録することなわけで、そんなもん誰でも実装できるし、新規性もない。
テキストファイルをHDDに描きこむのと原理的に何も差がないからだ。
ハードウェア的には全く違うものだが、ソフトウェア上では全く差がない動作のはずだ。それが特許対象になるというのが意味不明だ。
かつてのハネウェル訴訟のように、もはやアメリカに大手のカメラ企業はないので、REDを保護するためにやっているようにしか見えない。
つまりだ。
ニコンはRawと言わず、Nawとでも命名したファイルを内部記録すればいいだけなのだ。Naw形式はRawとちょっとかえて、固有のヘッダでもつけておけばいい。
カメラから読みだす際にそのヘッダを外して、実質Rawファイルにしてしまえばいいはずだ。
ソフトウェア特許はこういうことが多い。
ハードウェアはばらせばすぐに侵害されていることがわかるが、ソフトウェアはリバースエンジニアリングが難しいし、著作権と秘密保持を理由にソースコードを公開しなきゃいい。
またソースコードは簡単に書き換えられるので、訴訟の場では、ダミーのソースを提出すれば、実際は侵害していても、まあ、わかるもんではない。
だから結局、冒頭のようにRawを内部記録しているという「事実」しか残らない。
そして、それには新規性はない。
ソフトウェアのアルゴリズム的に何も目新しさはないはずだ。
データの記録は50年前からあったことだ。
新規のゴムタイヤに特許はあっても、車輪自体に特許がないのと同じだ。
しかも、これは「結果」のはずだ。特許は何かを実現するための「過程」にあるのではないか? Rawを内部ストレージに記録する、というのは結果でしかないのではないか?
ハードウェアの場合、ほとんど同一の「結果」をもたらすが、内部駆動(過程)が異なるということはある。
これだって、内部にRawを記録しているが、ソフトウェアの挙動はREDの特許とは全く異なるはずだ。しかし、これは特許侵害として成立するらしい。
実際の「挙動」ではなく、「結果」が特許なのか?
変なの。と思う。
おめえのそれ俺の車輪じゃん! と訴えられているようなものだ。
さらに「結果」が特許になるなら、何もできない。別の技術で代替するということができないからだ。
こういう馬鹿な特許は認めないでほしい、と思う。
認めるから、Blu-rayのコーデックみたいなことになるし、Raw自体も形式の数が馬鹿みたいに多い。それは結局、中身ではなく、「名称」や「結果」に特許がつくというデジタル特許の馬鹿さ加減のせいだろう。
RawもうんたらRawかんたらRawとあるが、中身はほとんど同じだろ? と思う。
鉛筆とシャーペンよりも差がないはずだ。
というのも、Rawは受光素子が受けたデータの羅列なので、何だろうが結局同じ。ビット長が違ったりするかもしれないが、そんなもんは、車の色違いレベルで差異ではない。
じゃあさあ、青い車に特許があるのかって。あるなら、それは青い塗料の製造技術とかだろうに。
jpegとSVGみたいな本質的な違いはどこにもない。jpegとSVGならそもそおデータ形式の考え方からして違うし、ちょっとやそっとで互換性を持たせるなんてできようもない。
またベクターデータというのはデジタル以前には存在しなかった新規性に富むものだ。
こういうのって、結局、ほとんど同じなのに形式が乱立するということになって、デジタル世界の害悪だと思う。
だって、ハードウェアなら12V駆動の装置を24VACから動かすことは容易だ。あいだにレギュレータかませばいい。しかし、デジタルは全く同じものなのに1bitズラされただけでもうどうにもできなくなる。
1bit違うだけで、ソフトはそのファイルを扱えなくなるし、確かに1bit分ズラせばいいだけだが、これは改竄で、ライセンスに抵触したりするとまずい。最悪訴えられるのだ。
だからファイルフォーマットなどに新規性はないんだから特許は認めない。データをストレージに書く行為に新規性はないから認めない。そうであってほしい。
もっとも、オープンソースがなぜあのライセンスを使用者に認めさせているのかといえば、ライセンス違反は訴える、という法的な恫喝によって成立している。
デジタルは確かにコピーや猿真似が容易(ハードの場合、設計図があったところで作れるとは限らない)なだけに、法的な恫喝で成立する面はあるのだが、そういったベンダーーロックに対抗するオープンソースもまた、同じ土俵の恫喝で成立していることは理解しておいた方がいい。