憂邦烈士連合会@ソロプレイ

IT、PG、アニメ、エンタメ、政治、歴史、時事、社会、カメラ、etc

【人間頼み】人命軽視と尊重のはざま【神頼み】

 日本人の極端な人命軽視(特攻など)と極端な人命尊重(瀬戸内シージャック事件)は表裏一体だし、度を越した精神主義(今も多くの学校や会社で見られる)もまた、その親戚である。

ja.wikipedia.org


 なぜこういうことになるのだろうか。

 東アジアでも、こういった傾向を持つのは韓国人と日本人で、中国人はもっと合理的な印象を受ける。
 アメリカ人と同様、マクロ的には人命は数でしかなく、精神論は大局的には無意味である、と考えているように見える。
 しかし、冷徹かといえばそうではなく、むしろ情については、日本人よりもずっと篤いように見える。

 ではなぜそうなるのだろう?

 と思ったとき、インド人やタイ人も日本人に近いメンタリティを有しているように思えたことだ。
 インド人は多民族なので、どうしても民族間の合理的取り決めが必要なので大局的には鳴りを潜めているが、タイ人は世界で一番似ているとさえ言われる。

 神の不在こそが理由なのだろうと、私は思う。

 中国は一見すると神が不在に見えて、イエズス会が気付いたように、天への信仰が社会に通底している。
 皇帝は文字通り、神であり天である。
 一方、イエズス会士も困惑したように、日本には神らしい神がおらず、デウスを比定する存在がなかったばかりか、日本人は天皇を神だと口ではいうものの、軽んじまくっていた

 天皇のご意思と偽り、専横を尽くすのが日本の歴史だったし、その意志は私の意思ではないと述べる権利が天皇にはなかった。
 だから天皇が代替わりしようが無関係に藤原氏は政治を壟断できたが、中国史において、皇帝が死ねばどんな権力者も後ろ盾不在によって死刑にされた。例外のように思える西太后も、皇帝の母だったからだ。

 中国ではどこかで皇帝=神に接触していなければ権力は保持できない
 つまりは、神の前では人はみな同じ、というわけだ。

 日本では神は不在のために、神の前では人は皆同じという考えがない

 だから、日本社会では生まれが異様に重視され、朱元璋は皇帝になれても、豊臣秀吉は将軍にすらなれない。
 タイもまた、明確な神は存在しない。
 韓国も同様だ。

 この、神の前では人は皆同じ、という考えは、黒人問題を考えるときに重要だ。

 というのも、同じ人間であるならば、当然、アダムとイブから枝分かれしたのであって、白人も黒人も兄弟でなければならなかった。
 白人たちはこの帰結を恐れた。
 だから、20世紀になっても、多地域進化説が唱えられた。黒人はホモサピエンスの亜種である、だとすれば、同じ神の子ではない。

 まあ、これは否定された。

 しかし、今度はネアンデルタールの血が入った白人は黒人とは異なるという考えが蔓延している。
 これもすべては、白人と黒人が同一の人類なら、平等であってしかり、という神の摂理が待っているからだ。科学的にこれを覆そうとしているのだ。

 一方、日本ではそうはならない。

 信長のように黒人を容易に受け入れるかと思えば、ガイジンはしょせん日本人とは違う何かとして排斥する。そこには一貫性がない。匙加減は「人間」が決めるのだ

 そう、人間が決める。

 日本では人間が一番偉い。

 だから、人間の精神で何でもなるし、人命は何よりも尊いから、その人命を使った兵器(特攻)は強大になるはず、という誤謬である。行き詰まれば行き詰まるほど、精神論が出てくる。
 これは一種の神頼みだ。

 西洋人なら、切羽詰まったとき、精神論を言うまい。神に祈るだろう。
 人事を尽くしたら天命を待つしかない(このことわざが存在すること自体、中国人もそう考えていたわけだ)。が、日本では「人間頼み」が行われるのだ。

 自分たちでは何もせず、英雄待望論ばかりをのべたてるのも特徴だ(会社を好転させるような才能のある新人がこない、など)。

 日本経済は日本の技術でどうにかなる! 努力でどうにかなる! これもしょせんは精神論=人間頼みの一変種にすぎない
 技術というのは普遍的なものであって、日本人固有ではないし、努力と成功の可否は無関係だ。
 が、具体性を伴わない頑張れ頑張れが世間には溢れている。

 すべては人間頼みなのだ。

 これは平時はいいこともある。
 イギリスの労働者階級は仕事をしないが、自分が労働者階級に生まれたのは天命であって、ゆえに、貴族になれるでもないから、仕事はしない、というわけだ。
 日本の場合、努力は実ると思えば、底辺も仕事に一生懸命だ。もちろん、実際には実らないのだが

 スポーツ選手なんかも、日本の場合は、努力やその選手の精神性あたりにクローズアップする。一方、西洋の場合、スポーツ選手がモデルをしていたりすることからもわかるように、一種の神=偶像として機能している。
 自分とは違う何か。熱狂するフーリガンの正体もそこだろう。フーリガンは狂信者なのだろう。

 日本では狂信者あまりいない。
 碌な成績でもなく、ヤクにまで手を出した清原を信奉する人々は、あれを神=偶像だとは思っていまい。情けなさもある応援したくなる人物してみているのだろう。
 この辺、韓国アイドルと日本のアイドルの差に似ているが、韓国人の方が人間頼みの傾向は薄いのだろう。これは戦後キリスト教が普及したことと無関係ではあるまい。