Pは死んだ

 まふまふとかいうのが紅白に出るらしい。
 なんかもうこんなんがうけるの? 最近の若い子はもうわからないところにいったんだな、と思う。
 というか、私は初音ミクブームの初期というか、リリースすぐからきいてるけども、ヴォカロ文化が歌い手文化に乗っ取られたあたりで、もうよくわかんなくなった。
 古参のヴォカロ好きは、何Pの曲か。というのが大事だった。
 歌うのはミクとかレンとか、まあヴォカロに決まっているので、個性がどこで決まるのかは作曲者しかなかったし、作曲者=調教者でもあったので、ヴォカロ調教の腕含め、何Pか? が大事だった。
 そして、多くのPがメジャーデビューしていったが、米津以外は鳴かず飛ばずだった。
 米津に関しては歌い手ではなくて、元P、つまりシンガーソングライターみたいなもんなので、目新しい領域というか、まふまふみたいなのとは違った。自分で歌ったというわけだ。
 その後、adoとかYOASOBIとか歌い手出身のメジャーデビューが加速した。
 結局のところ、作曲者であるPたちは敗北し、歌い手が勝ったのだ。
 いまとなっては、その曲が有名になるかどうかは、誰が歌うか、という感じになってしまっている。ヴォカロ文化は完全に歌い手に乗っ取られた感じだ。オープンソースの楽曲提供みたいな感じになってしまっている。
 しかし、面白いのはadoがそうだが、三次元歌手を求めてはいない層が一定数いるが、彼らはへそ曲がりなことにヴォカロも求めていない。
 私は非人間であるということで強くヴォカロを推していたが、ヴォカロは下火だ。
 ミクさんもヴォカロというよりは、一キャラクターとしての側面が強くなってしまった。
 adoは2.5次元だ。
 歌唱しないでもヴォカロに歌わせることで自曲を披露するヴォカロ文化は衰退した。結局は、歌い手への無差別楽曲提供に堕した。逆に歌い手の方も通常の歌手としてではなく、半ヴォカロみたいな2.5次元で売り出すようになった。YOASOBIは顔出しはしているが、ヴォカロ的歌唱を売りにしている。
 でも、私は残念なのだ。
 ヴォカロによって誰しもが曲を生み出せるっていうのは、幻想だったんだなと。世間は結局、人間の歌い手を求めていたのだな、と。まふまふの持ち歌なんて楽曲提供されたものではなく、「歌ってみた」ものが勝手に持ち歌扱いになっている時点で、ヴォカロPたちの地位は歌い手よりも明らかに低くなった。
 だって、世間は「まふまふの持ち歌」って言うんだぜ? 私ならうれしくない。全然うれしくない。
 確かにまえから歌い手の需要はあることはあった。
 曲はいいのに調教が下手なPや、まだヴォカロに歌わせるには困難な楽曲には人間の歌い手でカバーするほうがいい、というのはあった。ハイファイレイバーなんかまさにそうだった。でもそれでも、その一番の名声はP側にあったはずだが、もうない。