羅小黒戦記という中国の劇場アニメのトレーラーを見た。
たぶん、日本のアニオタの多くは、しょっぼ、しょせん中国pgrと言うだろう。
というのも、陰影がなく、ディティールがなく、書き込みも少ない。
日本のアニメと比べるとしょぼく見える。
しかし、アニメとは何か。そこをはき違えてはいけない。
トレーラーを見る限り、羅小黒戦記は「アニメーション」としての出来がいい。
ぬるぬる動く。
ディズニーもそうだが、アニメは動いてナンボ。
だからキャラデザはプレーンでディティールが少なく、書き込みも少ないのが望ましい。
個人的に2Dアニメの最高峰である「プリンセスと魔法のキス」も、キャラデザ単体で見ると、日本のアニメに比べしょぼい。しかし、実際に動画を見ると違う。
そもそも、動きやすさを意識して、あのキャラデザなのだ。
中国アニメはそういった意味でディズニーに近いし、スポンジボブもそうだが、正当なアニメーションの系譜だ。
日本アニメも手塚治虫の「西遊記」のころは、正当なアニメーションだったが、いつからか知らないが、変な方向へいくことになった。ちなみにこの変な方向に追従したのは韓国だけで、ほかはアメリカ・フランスの正当なアニメーションの系譜を追っている。
日本のアニメは漫画の影響を受けたせいか、異様に書き込むようになった。
結果としてバストアップが多用されるようになった。外国のアニメと日本のアニメを比較してほしい。異様にバストアップシーンが多いはずだ。
もちろんこれは手塚治虫のリミテッドアニメの手法の影響もあったかもしれないが、少なくとも、日本人はアニメを「はき違えた」。
外国のアニメでは、登場人物の全身が映っているシーンが多い。このため、私は「劇場型」と呼んでいる。視点が第三者視点なのだ。
一方、バストアップが多用されるようになった日本のアニメは「一人称型」で、カメラの視点が登場人物のひとりのような感覚を与える。
これはどちらがいいという話ではないが、結果として、日本のアニメは「動き」を軽視し、「書き込み」に走った。
そして、動きのために絵を崩すことが「作画崩壊」と呼ばれるようになってしまった。
NARUTOのアニメでは、一枚絵で見ると作画崩壊にしか見えないものがあり、叩かれたが、一連の動画としてみると、「作画崩壊」したほうが「アニメーション(動き)」としては素晴らしいことがわかる。
アニメのキモのひとつが「メタモルフォーゼ」だということを知らんのだろう。
もっとも、私が好きなアニメは「ef」みたいなやつである。
ほとんど動かない。動かないが、背景が暗転したり、登場人物の心情が色であらわされたり、「動画」でないと無理な表現技法。これが好きだ。化物語もよい。早い話、新房監督の手法が好きだったが、花火は駄作だった。あれは違う。
きっと彼の手法はリミテッドアニメ的だったのだろう。予算を与えられて、余計なことをしてしまった。
私はこの新房監督的な手法をメタ的な要素が強いので、「紙芝居型」と呼んでいる。
紙芝居は、語り手がメタ的にいくらでも介入できるし、漫画や小説と違い、鑑賞者には時間を自由にできる権限(*)がないことから、漫画や小説よりもアニメに近いと思う。
*ようするに、読み手が自分の配分で物語を鑑賞できる権限。動画にはこれがない。映画なら24fpsと決まっているが、漫画なら一ページを1秒で読んでも、10秒で読んでも、ぶっちゃけ読まなくてもいい。エンタメにおける「時間配分の権限」は重要な区分だと個人的には思う。