自分の時代

 SNS時代はまさに「自分の時代」だ。

 たとえば、自撮り。20世紀生まれの人間なら、カメラで何を撮るかといえば、旅行先の風景や、集合写真や子供であって、よもや自分ではなかったはずだと思うはずだ。

 SNSもいわば承認のための日記帳だ。
 そもそも日記というのは他人に見せるものではなく、見られることは「恥ずかしい」ことではなかっただろうか。

 youtubeは閲覧履歴に基づき、おすすめ動画を見せてくる。パーソナライズだ。ネットもTVとは違い、こちらの意思とは関係なく、「見せられる」ことはなく、「任意に検索した見たいもの」だけが見れる。またいつでもよく、TVのように特定の時間に市長を強要される(録画はあるが)こともない。
 自分第一だ。

 こういうと、自分皇帝たちが幅を利かせる世界になっているように見えるが、実際は違うだろう。むしろ、精神疾患は増加し、ひきこもりは社会問題化し、男女は恋愛しなくなる。

 なぜか。
 自分の時代とは、むしろ、「複数の他者を見せつけられる」時代でもあるのだ。

 みなが自分を公開し、自分であふれかえったネット世界は、他者であふれかえっている。

 ほとんどネットが電話回線だった時代、エロはやはりエロ本頼みであった。きれいなねーちゃんは近所にいるはずもなく、TVの中にしかいなかった。世界はせまく、自分の周囲とTVの中の芸能人以外の動向も、容姿も、性格も、思想も、それらは不鮮明だった。
 不鮮明だけに、井の中の蛙でいられた。

 自分は美人だ。TVの中の芸能人よりは劣るが、町で自分より美人を見たことはない。
 そういううぬぼれ、自己陶酔が許された。

 現在は違う。
 自分の時代だが、自己陶酔は許されない。
 ネットにはいくらでも素人の美人があふれかえっており、自己陶酔は誇大妄想と同じになってしまう。だから、承認欲求だけが肥大化するのだ。

 自分を美人と認めてほしいという欲求。

 みなが見せつけあい、自分が自分がといいつのり、しかし、他者の欲求をこれでもかと欲している。
 そら精神も病む。