個人的なことをいえば、LGBT問題はどうでもいいのだ。
それは無関係だとか、意味がない、という意味の「どうでもいい」ではない。
男女に拘泥すること自体、性別をどうこういうこと自体、どうでもいいのだ。
LGBT論者も結局は男女にこだわっていなくても「性別」にこだわっているので、私からすれば彼らは同類だ。
セクシャルにこだわっているだけ。
私は別に、男だと思えば男でいいし、女だと思えば女でいい。どうでもいい。
そんなのは自由でいい。
議論すべきは、「レイプの危険」や「スポーツの肉体的格差」であって、「性別」ではない。
どうにも、ズレているとしか思えない。
性別が個人の問題なら、それに干渉する権利は私にはない。だからどうでもいい。
ただし、個人の問題と社会の問題がぶつかった場合、議論が必要だ。
ゲイカップルをきもいとは思わない。個人の自由だ。
同性婚も別に社会に不利益なんてないから、自由にすればいい。偽装結婚? そんなもん男女でもありえる。
じゃあトイレはどうか。これはレイプの危険がある。
だからどうでもよくない。
トイレは自身の性自認ではなく、「セックスの対象となる性別」で判断すべきだろう。性自認は男でもセックス対象は男みたいなのもありえるわけだ。トランスのゲイだな。
しかし、これは内心なので判断のしようがない。
であるならば、生物学的性で決めるしかない。
トランス男性だから女子トイレに入りたくない? それをわがままというのだ。
社会は「我慢によって成り立っている」のだ。
性犯罪を未然に防ぐためなら、それくらい我慢しろ、というのが筋だろう。四六時中我慢するわけじゃない。排便のときだけだ。ほんの数分だ。
監視カメラ社会なのも、安全とトレードオフである。監視カメラ社会の欧米でどうして、性の問題にはこのことが適用されないのか。疑問である。
私はこの自分の考えを理性的だと思っているが、世間でこの手の考えを聞いたことがない。
肯定派は「内心」の話ばかりだし、否定派は「社会常識」の話ばかりだ。
そうじゃない。
個人の自由と社会の話は別だ。
また、最大多数の最大幸福以外の原理を社会に当てはまることはできない。これをしてしまうと、「誰かの優遇」になってしまう。
で、最大多数の最大幸福を考えるなら、性別に拘泥することはどうでもよい。そんなものは個人の自由でどうとでも自称すればいいし、不利益のない結婚なんかは開放しても問題がない。
ただし、犯罪や社会不安につながるようなことはさけるべきだ。