弱者男性というのは、そもそも生物原理から見放された存在だ。
女性は本能的に弱い男性を嫌う。
これは理屈ではない。本能である。だから説明することはできない。稀にダメンズ好きがいるが、珍しいからこそ話題になる。彼女らは本能の要請に従っていない壊れた本能を持ったメスであるから、あてにしてはいけない。
そして、生物的原理だけではなく、社会的原理からも弱者男性は見放されている。
弱者がクローズアップされるとき、弱者男性はあたかもいないかのように報道される。
未婚の母だの、LGBTだのよりも遥かに弱者男性は苦しんでいるが、そこに差し伸べられる手はない。
なんで努力しなかったの? きみが弱いから悪い、でおしまいである。
そりゃそうだ。
社会を支配している強い男性にとって、弱者女性は救う価値がある。抱けるからだ。しかし、弱者男性を救うメリットはない。全くない。
むしろ、彼らは底辺を這いずり回って、飲食業や工場に勤務し、むなしい人生と酒だけに生きていてくれたほうがいい。安く使えて文句も言わない労働者、こんないいものはない(弱者男性は気が弱いので逆らわない)。
ネトウヨになってせいぜいネットで吠えているだけだ。実害などない。世間的には気の弱い真面目な男性にすぎない。
一方、真面目に生きている弱者男性には全く救いの手が差し伸べられないのに、したい放題やった犯罪者や、底辺は底辺でも犯罪行為を繰り返すようなクズには救いの手が差し伸べられる。
なぜなら、彼らの存在は社会に明らかなマイナスなので、矯正すべきとなるからだ。
数学では0の扱いが特殊だが、弱者男性=0だ。0は何もしなくていい。0だから。
本当の弱者男性とは、おそらく喧嘩もしたことがない。
歯向かったこともない。能力もない。だから、言われるがまま、生きるしかない。誰からも必要とはされないが、社会の代替え可能な歯車としてだけ生かされている。
だから未来永劫、弱者男性は救われることはない。
私が思うに、男性の1割は明らかに、社会、恋愛、娯楽、経済、あまつさえ社会福祉からも、あらゆるものから取り残されている。
精神病にでもなれば、生活保護もでようが、そうもならない。手取りは10万くらいで、死なない程度には生きていけるが、生活費に消えて娯楽は何もない。
DQNは救われる。彼らは社会にとって害なので、税金で宥めてもらえる。
村社会の時代ならそういったチンピラ風情は村民たちが私刑に処したろうが、現代はそうではない。皮肉にも、高福祉社会になればなるほど、社会的マイナス要因=反社会的人格者たちに税金と福祉が与えられる。
福祉はマイナス要因に対して与えられるのが鉄則だからだ。
シングルマザーや障碍者は明らかな弱者として認定され、さまざまな手厚い福祉を得られる。手厚さは今後も増す一方だろう。
特に日本では一種の「努力原理主義」のせいで、弱者男性の立場は欧米よりもずっと悪い。
人間の能力は運命でどうにもならないこともある、とキリスト教圏では考える。
そもそも、人は原罪を背負っているのだ。しかし、努力原理主義のこの国では、「能力がない」は言い訳なのだ。
いつまで経っても氷河期が、努力不足、自業自得、自己責任で切り捨てられ救済されないのはそのせいだ。
新卒社会のこの国で、売り手市場のときと買い手市場のときで、「努力が報われる数が明らかに違う」のに、社会の情勢を全く考慮せず、「自己責任」で片づける。空寒くなる。
日本経済悪かったせいで狭き門となり就職できないのは努力不足で、本人が生まれつきクズだっただけなのに犯罪者は社会の犠牲者、という思想が強いのは、いつまで経っても理解できない。生まれ持って性悪でない人間は犯罪などしないというのに。
ではなぜそう解釈するのか。
そりゃあ、理由は同じだ。
社会の責任=強者男性の責任だからだ。
なんで、強者男性が弱者男性に施さないといけないのか。女なら女性器があるからいいが、男性器しかついていないやつに施す理由など皆無だ。一方、犯罪者というのは、ある意味で社会のトップとよく似ている。
そもそも清廉潔白なままで社会のトップになれるわけがなく、大なり小なりなにがしかの悪事に手を染めているのだ。
だから、社会を支配する男性たちにとって、犯罪者はどこか親近感もあり、「彼らは元気があってよろしい」だの「道を間違えただけで、やり直せる」などほざく。
この世に弱者男性が救済される手段は未来永劫、一つしかない。解脱だ。
この世界の理から解脱するしかない。
ネットでぐちぐち文句を言うだけの、大して能力もない低賃金で使える労働力、それが弱者男性の存在意義と社会は規定している。だから絶対に救われない。社会運動をしても意味がない。
弱者男性が弱者女性のように権利を手に入れることは、社会全体の損害=低賃金労働者の不在と考えられるからだ。女はこれまた生物的原理に基づき、「すべての生殖可能な女性には、本人の資質と一切関係なく、生物的な価値が存在する」から、必ず救済される。
ここで大事なのは「生殖可能性」だ。シングルマザーはメディアが可哀想として扱う。子殺しをしても、きっとノイローゼだったと世間は同情的だ。しかし、老婆にはどうか。老婆に向けられる態度は、弱者男性のそれに似ている。
社会というと本能とかけ離れているように感じるが、それは違う。社会ほど本能で動くものはない。
なぜか。
アリやハチが社会を作るように、人間も「本能で」社会を作るからだ。人間社会は本能によって作られ、本能の原理で運営されている。なにせ、全く異なる個人の総体で、何か共通項を導き出すならば、それはホモサピエンスという種の本能しかない。
だから、社会不適合者は「おかしい」のだ。本能の通りに動かない=生物的に欠陥がある=不良品だ。
こう考えていくと、LGBTは「一過性のブーム」だと私は思っている。ただ、女性同士で結婚し、科学が進めば、卵子同士で子供を作る、というようなのは推進されるだろうから、すべてのLGBTが廃れるとは思わない。
レズにも子供を作らせる、というのは「産めよ増やせの生物の第一原理」に忠実だ。LGBTの本質はそこだと私は思う。だから残念だが、ゲイの市民権は思ったほど向上しないだろう。
向上するのは、レズと反転カップルだ。彼らのような「生物的に異常」(勘違いしないでほしいがジェンダー論が異常とは言っていない。あくまでも生物学的な話だ)な番にも子供を作らせること、これが本能で構成された社会が私たちに要請していることだ。
私たちは自由意志で社会を決定していると思い込んでいる。しかし、「社会という総体」は本能原理に近い。たとえば、イナゴ、サバクトビバッタは、いつでも蝗害を起こすわけではない。
バッタ密度が増えると、変異し、蝗害をもたらす。変異したサバクトビバッタは本来とは異なる姿、行動様式を取るが、DNAに変異があるわけではない。あくまでも、ある一定のバッタ密度が彼らの社会と姿に変化をもたらす。
人間社会も恐らく同様である。誰が望んだわけでもないのに、戦後貧乏になった瞬間、出生率があるのも、社会という本体=本能が子孫を増やせと暗に要請するからだ。個人の意思はそこにはない。