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【医学史】「解体新書」の意義と疫病と国家

 日本人の西洋崇拝のひとつに、西洋医学への過大な評価がある。
 そのひとつが、「解体新書」を巨大な日本史上の偉業のように描く歴史観である。

 だが、残念なことに、「解体新書」には何も歴史的意義がない。意義がないものを素晴らしいというのは間違いだ。説明していこう。

 日本史の教科書を見ると、西洋医学によって日本の医学は飛躍的に発展した!! 蘭学万歳!!! 「解体新書」は近代日本医学の聖書! みたいなことが書いてある。子供の頃に読んだ歴史漫画でもすさまじい偉業のように描かれていた。
 翻訳しただけの杉田玄白をとんでもない偉人のように活写しているのは異常ではないだろうか。
 件の漫画でもとんでもないヒーローとして描かれていた。

 そもそも、江戸期当時の西洋医学がそんなに素晴らしかったか? という点に疑義がある。
 当時の西洋医学占星術や魔術と結びついたとんでもないものであった。当時の医学は呪(まじな)いと不可分であった。
 だからこそ、日本人は基本的に解剖学しか受け付けず、当時の西洋医学のメーンストリームであった四体液説はほぼ無視された
 これは重要な事実である。
 西洋医学を当時の江戸の日本人が現代日本人のように金科玉条にしていたなら、四体液説も受け入れたはずなのだ。
 だが、当時の江戸の医者たちからしても、四体液説は、荒唐無稽だ、と判断されたのだろう。だから無視された。

 実際、外科が先進的だったのは事実だが、内科については19世紀になってもホメオパシーがまかり通るありさまで、西洋医学なんぞ東洋医学と比べて、総合的な観点からは進んでいるとはいいがたいものだった。
 解剖学が先進的だからということと西洋医学そのものの先進性を混同している日本人は後を絶たない。「解体新書」もまた、解剖学の書であって、総合的な医学書ではない。

 20世紀になって、細菌医学などが生まれ、初めて西洋医学は近代的なものとなった。
 19世紀後半からのヨーロッパの躍進は、一万年の人類史上でも異常と思えるようなスピード感だったが、医学もこの例に漏れない。

 四体液説の詳しい説明は省くが、これに比べれば、むしろ五臓六腑の調和こそが健康に必須と考えた江戸期の日本の医者の方がまだ真実に近い位置にいたとさえ言える始末だ。
 現代医学では腸と脳が連携していること、連動していることが知られているが、思想としてはこっちに近いわけだ。

 長年西洋医学のせいで、眉唾とされてきた漢方についても、最近いくつか見直された。
 漢方の製法自体は数百年あまり変わっていないものもあるので、当時から有効だったと考えるのが妥当だろう。一方、中世から近世の西洋薬学で見直されたものはほとんどない。現代医学で効果が確かめられないからだ。武器軟膏とかぬかしていた連中なのだから、まともな薬学がなかったのは仕方がない。
 これも重要な事実である。薬学については東洋医学の方が進んでいた、と取れる。

 そりゃそうだろう。

 漢方はまともなもの(たとえば、葛根湯。元ネタは「傷寒論」なので7世紀くらいからある薬)から眉唾(龍骨を煎じて飲むとかそういう類)まで幅広いが、西洋薬学には黒魔術の延長線上みたいなものしかない。
 なぜこうなったのかといえば、まともな薬師を魔女呼ばわりして中世に殺してしまったからである
 魔女の多くは学がなく経験で調合していたので、書籍はほとんどない。見直される余地もないのだ。

 ここまでの論の示すのは、所詮、西洋医学が決定的に正しいとなったのは最近のことにすぎない
 これはヨーロッパ白人は優れた人種という価値観が19世紀よりは遡らない価値観であるのと同じである。

 そして、「解体新書」礼賛のように、東洋医学は人体構造を軽視していて(逆に言えば西洋医学は薬事治療を軽視していた)、そこに西洋医学の解剖学が入ってコペルニクス的転回が起こった、というのもどう考えても間違いである。

 そもそも解剖学はダ・ヴィンチのような写実絵画には滞りなく使えても、脳が心を生み出すことについては何も説明できないし、そもそも、血液や神経の動きは、その形や見た目、人体上の配置を知ったところで、何もわからんのだ。
 ユーロセントリズムに毒された現代日本人は勘違いをしているが、解剖学そのものは生理現象を何も説明できないのだ。
 わからんからこそ、四体液説が唱えられたのだが、まあ、荒唐無稽な説であった。

 というか、そもそもの前提が間違っていて、解剖学についても体系的な書物がなかっただけで、当時、江戸期には市井に接骨医が存在したことから察するに、解剖学、骨学に関しては相応の知識があった、と見るのが常識的判断であろう。

 さらに言えば、日本で最初に解剖学を始めたのは蘭学者ではなく、接骨医の山脇東洋であった
 杉田玄白が小学校の教科書から何度も何度も記述され、皆知っているのに対し、彼はややマニアックで、高校の日本史にならないと出てこないだろう。
 また、東洋は蘭学も参照したが、彼が主に参考にしたのは中国の典籍(「傷寒論」など)であったが、「解体新書」がとんでもない偉業と喧伝される一方、江戸期において、中国の医学書を参照する医者の方がずっと多かった事実は無視されている

 これも現代日本人の異様なまでの中国の影響を最小限に抑えた歴史観の産物である。火縄銃だって、実際は中国船から伝来している。その船に乗り込んでいて、たまたま銃器を所持していたのがポルトガル人だっただけなのだ。

 確かに翻訳は大変だったかもしれないが、当時オランダ語のできるやつはいたわけで、自ら医学を研究するよりはるかに簡単なことは言うまでもない。
 しかも、本文のみで注釈は訳していないのだ!! 学術書における注釈ほど重要なものはないと思うが……。これでは役に立ちそうもない。

 そして、東洋は「蔵志」という解剖学書を出しているのだが、1754年刊行で「解体新書」より早いのだ。
 もちろん、江戸初期から西洋の解剖学的知識自体は入ってきてはいたのは事実だが、中国医学のように体系的に導入されたのは江戸後期だ。

 何度も言うが、日本史の記述において、異様な西洋崇拝はよく見られる。
 フロイスの「日本史」も異様なほど典拠として記述されるのだが、所詮外人が書いたことであるのに、国宝レベルの重要文献扱いだ。
 一方、朝鮮通信使たちが残した日記は無視され、殆ど参考にされない。どう考えても、キリシタンのバイアスのかかった記述よりも、同じ文化圏の朝鮮通信使の日記のほうが確度が高いと思う。
 全く、おかしな話だが、こういったことが日本医学史でも散見される、ということだ。

 また、当時の日本の医者たちが解剖学的な見地で一番参考にしたのは「無冤録述」「洗冤集録」という法医学書である。
 この書名を知っている人はマニアであろう。Wikipediaの記述もないにひとしいほどマイナーであるが当時はド定番の書物だった。

 さて、法医学というとなんか新しい言葉だ。
 確かに言葉としては新しいかもしれないが、「洗冤集録」は法医学的な見地から記された書としては世界初のもので、12世紀ごろに書かれた。「無冤録述」は13世紀だ。
 私たち現代日本人が思っているよりも中世の中国は遥かに先進的で、ヨーロッパ人が魔女裁判宗教裁判をやっている時代に、のちに法医学と呼ばれるようになる学問をすでに開始していたのだ。

 これらの書に付随する図版は「解体新書」のリアルさには、遥かに劣るかもしれないが、法医学的見地について詳述されており、日本ではなんと19世紀まで使用された
 詳述されただけの図版である「解体新書」と、実用書である「無冤録述」「洗冤集録」のどちらを当時の臨床医が用いただろうか?
 火を見るより明らかであろうが、市井の臨床医のことは歴史上無視されるものであろう。

 また「解体新書」が実際に衝撃的で日本医学に重大な影響を与えたとされる事実そのものに疑問符がつく。
 というのも、1774年に出版されているので、江戸時代も後期である。
 また初版は誤訳が多く、二版は1826年出版なので、もう幕末である。影響があったという通説自体が非常に疑わしい

 おそらくだが、日本医学会が驚いたのは単純に「リアルな図版」に対してだった、と考えるのが妥当だ。
 つまり、誤訳だらけでも衝撃的だったとするなら、翻訳の意義はほとんどない。
 これは結局、西洋絵画のリアリズムが日本絵画に与えた影響と根本的には同じで、学術的な意義はほとんどないと言っていいだろう。

 「無冤録述」「洗冤集録」は知名度が大変低い(「無冤録述」の方が多用されたらしい)が、世界史上重要な書物である(「洗冤集録」の英語のWikipediaには重要な書物とタイトルされている)。
 「洗冤集録」の著者宋慈は当時、賄賂や不正による冤罪に対し大きな不満を抱いていた(まさに書名がそうなっている)。
 そう、彼が始めたのは、体系的な検死である。
 欧米では拷問や占いで犯人を捜していた時代に、死体の状態から犯人を割り出すという画期的な手法を始めた人物である。
 しかも、こんな既得権益の人間たちに都合の悪い書物がきちんと出版できたあたり、当時の中国のレベルの高さに唖然とする。

 また「洗冤集録」には救急救命の方法も書かれている

 13世紀にこれをやってのけたのはすごいとしかいいようがないし、江戸時代の段階では中国医学の方が西洋医学よりも進んでいたと考える方が妥当なように私には思える。
 だからこそ、「解体新書」の図版以外は江戸期の医学界に価値がなかったのだ(じゃあ、「解体新書」で何が変わったのか? というと具体例を見たことがない。ただただ何かすごいというだけだ)。

 もっとも、19世紀後半に西洋医学はとんでもない躍進を遂げ、中国医学やアラビア医学といった既存の医学との間に抜き差しがたい差が生まれてしまったのは事実だ。
 医学の歴史だけではないが、根底にある西洋崇拝と中国蔑視の色眼鏡を捨ててみるべきじゃないだろうか?
 歴史を記述する日本の歴史家自体が手ひどい色眼鏡で物を見ている。やめてほしいものだ。

 たとえば、「解体新書」よりはるかに重要なトピックであるはずの「人痘接種」が中国伝来だったことは言及もされない。ジェンナーの牛痘接種は教科書に載っているのに。
 更に変なのは、日本人の記述する世界史がギリシャから始まることだ。
 どう考えても中国古代史から始めるべきだろう。なぜか中国史が傍系になって記述されるが、グレコローマン史こそ傍系で語るべきだろう。自分がヨーロッパ白人になったつもりなのだろうか?
 もっとも、古代グレコローマン世界は非ゲルマン世界だから、ゲルマン人(英仏独)がギリシャを自分たちのルーツと唱えるのも変だとは思うが。

 さらにいえば、「人痘接種」は中国では紀元前から行われていたし、ヨーロッパの「人痘接種」はもともとオスマン帝国から伝来した。
 この事実からして、人類史上悪魔と呼ばれた病気「天然痘」対策(有史以来、人類を悩ませ続けた病気である)において、近世のヨーロッパ医学がどれだけ遅れていたのか、という証拠であろう。

 もっとも、対策が遅れていたからこそヨーロッパではにっちもさっちもいかず、「隔離政策」を取った(日本でも離島や山間部はそうだったようだ)のだが、これにはよい副作用があった。
 隔離ばかりでは経済が回らない(イタリア諸都市では40日という規定だったようだ)し、人の往来も滞る。コロナ下でもそうであった。
 そこで、コロナ下でいうところの陰性証明のようなもの(まあ、当時のことだから、ほとんど無意味ではあったろう)が発行された。そしてこれがのちにパスポートの概念につながっていく
 ある意味、近代民主主義における最大の概念「ネーションステート」がこのとき誕生したともいえる。
 牽強付会を承知で言えば、医学の遅れがヨーロッパにネーションステートの概念をもたらした。パスポートの存在が、国境を意識させたのである。

 コロナについて、今も拡散を防止するために国境を閉ざすという「国家単位の隔離政策」がなされているが、疫病と公衆衛生政策こそが「近代国家」をつくったと考えると、順番が逆だ。
 伝染病対策のために国家単位で国境を閉ざすのではなく、伝染病対策のために渡航を制限するために生まれた区分けが近代国家なのだ。