日本では紛失した。失念した。でなぜか許される

 日本では紛失した。失念した。でなぜか許される。仕方がない、となる。
 しかし、これはおかしい。
 責任ある立場なのだから、紛失や失念自体が罪であるし、重要な事項や文書を忘れたりなくしたなら、かなり重い罪となるはずだが、この国ではなぜか、そうならない。無罪なのである。

 これは伝統芸で戦時中の文書もほとんどない。アメリカ軍が上陸するといううわさを聞いて燃やしたからだ。一方、支配者にとって都合のいい人別帖や壬申戸籍は余裕で残っている。おかしいよなあ。あれだけ空襲があって、どうしてそれが残っているのか。

 なので、戦前戦中の文書は翻訳した写しが外国で見つかる。
 そりゃあそうだよなあ。外国と交わした文書を「なくなった!」と言っても、国内でしか通じないわな。写しが当然外国にある。
 基本的に海外では紛失や失念は重い罪なので、日本のように文書を燃やして何もなかった! は通じない。
 燃やした時点でギルティなのだ。中身がわからない=無罪ではない。中身がどうであれ、中身を見れないように工作した=中身に罪があった、となるわけだ。

 ゆえに、口封じが横行する。暗殺である。文書は燃やせないが、「暗殺は隠せる」。
 どうしても、文書は燃やせないので、アメリカのようにとにかく関係者が死ぬまで非公開にするとか、「俺は悪くない!」と開き直るか。大体どれかのパターンだ。

 文書主義は国家の要なので、中国ですら膨大な清の文書が現存する。燃やしていない。ヨーロッパでも、ドイツではナチスの不都合な文書はわりと眠っていて、見なかったことにしていただけなので、案外簡単に見つかるし、スペインやポルトガルの不都合な奴隷貿易についても膨大な文書が現存する。
 文書を燃やすのは日韓くらいだ。
 これは重大な話で、文書主義の否定を意味している。
 よく中国を人治主義というが、日本こそ人治主義の極みである。