高木さんが生み出したムーブメントは〇〇さん系と呼ばれているが、実際のところ、高木さんの最大の貢献は、ラブひな以降、アニメ・漫画界に蔓延していたハーレム系(いわゆるギャルゲ系)ムーブメントに引導を渡したことであろう。
私は久々のヒット作として、ぼくヤバをあげたが、私はこの流れを「固定ヒロイン」と呼んでいる。
同様のジャンルでは、三重さんも悪くない。
現在、ギャルゲはほぼ死体(瀕死)だが、赤松健自身がいうように、ラブひなはギャルゲの構造を漫画に持ち込んだ作品だった。
このギャルゲ的な構造のうち、マルチエンド方式まで持ち込んだ急進派というか最終進化系が「僕勉」だったが、やりすぎてしまった感がある。さすがに、ゲームと漫画ではメディアが違う。
このハーレム式はラブひな後、大いに増え、ラブコメの基本線になっていく。
しかし、この方式、ヒロインが多いものだからAKBのように多くの方位に対し訴求する反面、各ヒロイン自体の訴求力が弱く、コンテンツは最終的にキャラ人気なのだが、このキャラ人気が維持できなかったり、主人公の行動に一貫性がなかったりと弊害を多く生んだ。
「ニセコイ」など途中から主人公はパペットのようで、ストーリーの都合で変形するため、感情移入もしづらいものとなった。キムチは有名であろう。
また、複数人の女性にもてる男性ということ自体が非現実であった。
結果として、多くの人の共感を集め、主人公に人間性を持たせ、ヒロイン人気を維持するには固定ヒロイン方式が望ましい。
というのも、固定ヒロイン式なら、主人公が変な奴でも、蓼食う虫も好き好きで説明がつく。
では、固定ヒロイン方式は新しいものなのか。
否、むしろ古い形式である。
もともとラブコメの形式は2パターンあり、どちらも高橋留美子によって開拓された。
めぞん一刻方式とうる星やつら方式である。
「めぞん一刻」の場合、主人公と管理人さんがくっつくエンドになるのは序盤から既定路線である。
確かにライバルは登場するのだが、そもそも、管理人さん以外のヒロインが彼女と同じ立ち位置にいないのだ。いってしまえば、固定ヒロイン方式といえる。
タッチなんかもそうだ。
で、この固定ヒロイン方式はキャラ人気の息が長い。
「うる星やつら」方式というのは、ハーレム方式である。これは、あたるがスケベで移り気というのもあるが、とにかく女が次から次へと出てくるのだ。
とはいえ、ヒロイン的に同じ立ち位置にいるのはラムとあかねだけで、他とは壁があるのは事実。うる星やつら以降、ヒロイン数は増えていく。
しかし、このころはあたるのように移り気な主人公ゆえにハーレムであった。
これが受け身のハーレムになるには「ラブひな」を待たねばならない。
また、あたるは女の子を明らかにエッチな目で見ており、さすがにセックスとは言わないまでも、「いいこと」をするのが目的である、というのは暗にわかる。
恋人になろうとするのだ。
ここでも20世紀末からの変質がある。
主人公は「恋人になりたい」「彼女が欲しい」という欲を出さない。女の子がよってきちゃうぜ、やれやれ。という風なのだ。
漫画ではないが、「はがない」あたりは典型例(作者はわざとそうしているが)だろう。
一方、「ぼくヤバ」は少しシコりすぎ(女性作者ゆえにシコ頻度を理解していないのか?)だが、昨今の固定ヒロイン方式は、主人公側が「ヒロインと恋人になりたい」と考えているのが顕著だ。
揺り戻しなんではないか。と私は思っている。
私の青春時代はハーレムものの全盛期で、「キャラをめでる」ものであって、主人公はまさしく竿役でしかなく、特徴のない黒髪主人公が横行していた。
今は正しい本来のラブコメに回帰しており、「ふたりの関係性をめでる」のである。
高木さんにせよ、山田にせよ、三重さんにせよ、明らかに主人公に対して好意をいだいているのは明らかであるが、ここがハーレムラブコメと違う点で、「いつ恋心をいだいたのか?」が明示されないし、ヒロイン側の内面についてはサラっと描写するか、ほぼ記述がなく、まさに「主人公の立場になって楽しめる」構造になっている。
このせいか、西片や市川はキャラとして人気がある。
実際の恋愛に近いのは固定ヒロイン方式なのは言うまでもない。
恋愛というのはいつの間にか始まっているものだ。現実でも。
いつだったのか、始まりなんてよくわからないし、なぜ好きなのか説明は難しいが、とにかく「しゃべってみたい」「触ってみたい」と思う。
高木さんのフォーマットは私が述べたことに忠実だ。
高木さんが西片のどこを好きなのか、語られない。
ハーレムラブコメだと、これはイライラするだけ(移り気男ゆえに)なのだが、少なくとも読者には西片がいいやつであり、努力家であり、高木さんに一途であることはわかる。
読者も、西片のどこに惚れたのかはわからないが、少なくともクラスで一番美人っぽい高木さんが惚れてもおかしくはない、と思わせる人物造形にはなっている。
これは面白いことだと思う。
惚れられた側が魅力的だとヒロインも魅力的になっていく。
逆に、優柔不断なハーレム主人公に惚れるヒロインはアホに見え、むしろ魅力が下がる。男を見る目がないからだ。
ヒロインに語らせるのではなく、主人公を魅力的に仕立てることで語る必要性を省く。というか、語られないほうが考察のし甲斐もあるし、文学的だろう。
なんでもかんでも説明するのは美しくない。
ぼくヤバの市川も同様で、惚れた経緯は不明だし、一巻の段階では惚れていそうにないが、どこかの時点で惚れたのだろう。そして市川もまた一途である。
更に今上げた作品はすべて主人公もヒロインも同級生でかつ中学生である。
これが高校生だとセックスしないには不自然だし、好きの一言が言えないのも奇異に思えるが、中学生なら、不器用だったり、自己中心的だったりしても、読者には微笑ましく見え、ラブコメには中学生という設定は向いているのかもしれない。