過程とは世間的には無価値だが、個人的には意味のあるものだ。
しかし、だからといって、自分以外の人間に、俺がこの絵にかけた情熱に価値を認めろというのはない。ナンセンスだ。
過程は第三者にとっては無意味でしかない。なぜなら、内面性の話である。
努力(過程)は人生を豊かにするが、それは完全に個人で完結していて、自分以外の人間には価値がないのだ。
だから、最終出力が同じなら、人だろうが絵だろうが、第三者的にはどっちもでもいいのだ。
つまり、過程に意味がないとするAI原理主義者の主張は、個人の枠内においては間違っており、世間的にはそれで正しい。
逆に、個人の努力や内面の価値が絵に出るという主張もまた、同様にナンセンスであり、それあくまでも自分自身にしか適用されないか、少なくとも親しい人間にまでにしか作用しない。
第三者にとって、努力だの内面だのはどうでもいいことでしかない。
だから、絵を描く楽しみをAIは決して奪うことはできないのだ。
心は征服できない。
絵を描く楽しみは完全に自分自身の感情、気持ちの話でしかないし、趣味の世界では無意味なことはいくらでも横行している。
将棋だって、プロでもないし、将棋ソフトに勝てないのに、毎日指しているやつはゴマンといるのだ。
なぜそうかといえば、単純に楽しいからで、勝ち負けの話でもない。どうせAIには勝てないのだ。
また、芸術というジャンルでは、作り手の内面やストーリーを含めて作品が評価される。
つまり、芸術作品をAIが滅ぼすかといえば、それは原理的に不可能なのだ。芸術作品とは人間の内面、ストーリーも含めた商品だ。
たとえば、バンクシーの絵はいたって普通の絵で何の魅力もないが、バンクシーという謎のアーティストが描いたというストーリーがあって、価値が出る。
あれを描いたのが私なら、無価値なのだ。ゆえに、AIは原理的に芸術作品を作ることができない。
純粋芸術というジャンルは、個人の内面の話とクロスオーバーする。
彼ら純粋芸術家たちは完全に自分のために芸術を作り、それがたまたま誰かの目に留まり、商品化される。
死後見つかる場合もあるし、死んでも露見しないこともあるだろう。
ゴッホの絵の大半も弟のテオが焼いてしまったので、全部焼いていれば、ゴッホは発見されなかった。
つまり、現在のビッグデータをもとにするタイプのAIでは背景がなく、芸術が作れない。人格が必要だ。
AIと努力や過程の無意味議論はこのあたりの定義が混乱しているからだ。
商業作品であれば、出力がすべてであり、作者の背景はどうでもよくAI化がなされるのは時間の問題だろう。
また、個人の創作であれば、これは完全な自己満の世界であって、AIがどうとかどうでもいい話であるし、そもそも個人が楽しむために自分自身のためにAIを使うということもありうる。
誰しもが、誰かに見せるためにAIを使うわけではない。
最後に芸術作品である場合、作者の背景が重要になってくる。
AIが芸術を生み出すには、AI自体に個性やストーリー、人格が必要になる。
逆に言えば、人格やストーリーをAIに与えるには、なんでもかんでも学習させる平均値化の学習ではむしろだめで、制限された学習が必要になるだろうし、一貫性のある思考様式や人格を感じさせるような処理をもたせるには、パターンマッチではだめで、ニューロンネットワークのような仕組みをどうしても組み込まざるを得まい。
AIで仕事がなくならないのは棋士を見るとよい。
各棋士にはファンがおり、対戦中に何を食べたかといったストーリーが話題になる。AIソフトにはこれがなく、面白みがないので、プロより強くても、一般人は興味がない。
だから棋士は廃業しない。
人間同士の戦いが生むストーリーを将棋ファンは求めているのであって、最適化された数値処理が見たいのではない。
AIは二歩を絶対にしないが、人間はする。観客は二歩で負けた棋士がいれば、そこにストーリーを見出す。
VTuberの流れもあてはまりそうだ。
最初、キズナアイはAIとして登場した。
中の人がいること明らかだったが、AIという設定を楽しむものだったが、彼女に続く設定のVTuberはでず、一部のVTuberに至っては、胃カメラだか腸カメラだかの画像すら公開し始めた。
そう、ガワの先にはAIではなく、結局、現実=ストーリーのある人間が欲しかったわけだ。