中東は先進地域だった

 人類の歴史上、中東はずっと先進地域だった。
 そもそも新大陸文明と中華文明(黄河、長江)以外は、すべてメソポタミアから始まった。なので四大文明というのはちょっと違い、実際には中東系、黄河系、長江系、中央アメリカ系、アンデス系の五個だ(モホス系を加えてもいい)。で、実際残存しているのは二系(中東、黄河)なのだが。
 エジプト文明はその初期(未文字時代)からメソポタミアの巨大な影響下にあったことが最近の考古学ではわかっている。これがヒエログリフに絵の段階(絵文字以前)がない理由だろうし、インダス文明も同様に絵の段階がない上、メソポタミア系の出土品が多数見つかる反面、逆は殆どない(文化はほぼ常に文化程度が高い方から一方的に流れる)。
 また、インダス文明は早期に滅び、シュメール・アッカド文明の末尾に連なるアーリア人に侵略されて現在に至る。つまり、完全に中東文明に置き換わっている。
 ヘロドトスギリシャ人はペルシア人の真似事ばかりしているというようなことを書いているし、実際アクロポリスペルセポリスの列柱によく似ている。ギリシャ人が単独で発展した、と思いたいのはヨーロッパ人の妄想の産物だ(エジプトの影響は認めるが、ヨーロッパ人はどうしても中東=イスラムのイメージからこれを受け入れない)。
 中東では人類に大きな影響を与える多くの基幹技術が発明、開発された。
 天文と暦法が60進法なのはシュメール人の発明だし、数学、会計、貨幣、一神教キリスト教はヨーロッパの宗教だと思い込んでいるが、発祥の地はシリアである)、建築学、灌漑、ほぼ中東で生まれた。
 中国人はヒマラヤとゴビ砂漠の影響で自力発展を余儀なくされたが、天文学や貨幣については中東から移入された。というか、この二つがないと先進地域である中東と取引や貿易ができなかったのだ。
 中東は先進地域だったために、めまぐるしく支配者が入れ替わった。そうだろう。世界で最も豊か土地なのだ。みんなほしい
 シュメール人は異様なほど進んだ経済、学術、会計、建築、天文の知識を残して、早期に歴史から消えた。このせいで、長らく彼らの存在は歴史上記述されなかった(なにせ近代に粘土板が見つかるまで古い時代のことすぎて誰も憶えていなかったのだ!)。
 アッカド人、アッシリア人バビロニア人、ペルシア人ギリシャ人、ローマ人と次々に支配者が入れ替わった。
 ローマはヨーロッパ文明ではなく、中東文明の末端に位置していたローマ帝国がヨーロッパではないのは、すぐに首都機能が田舎のローマではなくコンスタンティノープルへ移動したこと、田舎言葉のラテン語ではなく中東でも通用したギリシャ語に置き換わったことがあげられる。
 ヨーロッパ人はローマ→ゲルマン世界へ、あたかも文明が移動したかのような嘘をを正当化するため、西ローマの滅亡=ローマの滅亡とし、東ローマのことを自称もしていないビザンツ帝国という謎用語で呼ぶが、私は呼びたくない(ビザンツ帝国を認めることはヨーロッパ中心史観を認めることになる)し、ローマの滅亡は東ローマの滅亡をもってする。ちなみに、この理屈だと東ローマの後継者はオスマン帝国である。
 オスマン帝国、つまりトルコ人は中東文明最後の担い手となった。東ローマ帝国は最後までゲルマン世界(かつての西ローマ)ではなく、中東を見ていた。そりゃそうだろう。先進地域だもの。
 これはササン朝が健在だったころからそうだった。ササン朝と東ローマはいがみあってはいたが、エフタルやゲルマン人といった文明の外の野蛮人に対しては共闘する動きを見せた。また、ササン朝支配下メソポタミアを東ローマはずっと奪還しようとしていた。かつての本領イタリア半島よりもほしかったのだ。
 オスマン帝国になってからもそうで、オスマン王室と東ローマ王室には交流があったし、同じキリスト教でもカトリックは野蛮人の巣窟のように東ローマ帝国は考えていたフシがあり、そんなんよりもメソポタミアを獲得したトルコ人の方が対話できると思っていたフシもある。
 実際、オスマン帝国は世界一の先進地域にふさわしい経済力と軍事力を見せた。
 ヨーロッパ人はそれに愛憎半ばする感情を抱きつつ、実際はとてもうらやましかった西洋音楽はトルコ音楽の模倣から始まったし、近代の軍隊も近代の官僚制も、トルコの模倣から始まった。古いイタリアの寺院はモスクにとても良く似ている(ヨーロッパ人は認めないだろうが)。
 もっともこれは昔からで、ヨーロッパの王っぽさの象徴の王冠と杓をローマ皇帝はもっていない。どこからきたのか? これはペルシア王(ササン朝)の風習だったのである。ササン朝皇帝もまた、事実上の世界王(中東を支配することは世界の中枢を支配することと同じこと)だったわけだから、垂涎の的、まねしたのだろう。
 これまで世界史は二系統しかなかった。ヨーロッパ中心主義か、日本人が記述する東アジアも重要視したもの(ユーロセントリムを前提としつつ)か。なので中東や北インドシルクロードの「経由地」扱いだった。だがこれが間違いだ。
 実体としてはシルクロードの中枢に中東があり、西の終点がローマで、東の終点が長安だっただけだ。貨幣経済を生み出し、それを管理していたのがササン朝だったんだから当たり前の話である。
 ではいつ、中東は先進地域の地位を追われたのか。完全にケリがついたのはオスマン帝国の解体だったと思う。このとき中東は完全にオワコンとなった。19世紀の初めの頃だ。
 ヨーロッパ人が世界王に勝つ方法はひとつしかなかった。世界王の権勢がほとんど届かないか、まったく届かない地域で勢力を得るのだ。それが新大陸であり、オーストラリア、ポリネシアブラックアフリカであった。それ以外は少なからず世界王の影響が及んだ。
 これはうまくいき、19世紀には完全に勝利が確定しつつあった。世界王の帝冠は最早中東にはなく、ヨーロッパの誰かのものとなった。しかし、今度はこれをめぐって最終的に勃発したのがWW1とWW2なわけだ。
 面白いのは、地中海・中東指向だったためにあれだけ巨大だったオーストリア帝国が跡形もなく消し飛んだことだ。残ったのはオーストリアという名前の小国である。この辺、オスマン帝国とよく似ている。ヨーロッパのすべてが躍進したわけではない、ということだ。躍進したのは基本的に世界王の目の届かない地域を狙った西ヨーロッパ諸国だ。
 例外はロシアだ。
 なぜロシアは例外なのか。ロシアはその成り立ち、支配域から考えて、かつてロマノフ家がそう主張したように、ローマの後継者ともいえなくない。だからこそ、オスマン帝国と何度も争ったのは、最終的には、中東の支配権をめぐって、ということになるわけだ。
 ロシアが欧米世界と対立するのは、ロシアは中東文明の系譜の最終章だからかもしれない。オスマン帝国なきあと唯一の残り香だったわけだ。もっともそれも世界王の帝冠を得たイギリスの分派アメリカによって潰えるが。
 19世紀以降、先進地域はヨーロッパに移動し、そのままだ。ロシアの挑戦は失敗した。
 現在再びこの帝冠を狙っているのが中国である。
 中華文明は長く外界だった。世界の中心から遠かったからだ。田舎ものが中東の帝冠を狙うというのは歴史上の必然として続いてきたことだ。今もその帝冠は16世紀までまともに世界史に記述する必要のないイギリスの頭上にあるわけだし。