数学と国語の成績は比例しないだろう。
特に日本では国語=お気持ち重視だからだ。
しかし、読解力ということなら、数学の成績とある程度比例する。
数学がトンチンカンなやつはそもそも読解力がない。
そう。人の話を理解できない奴は間違いなく数学の成績も悪い。
理由は簡単だ。
言語というのは、音楽や絵画と類似のジャンルだと錯覚しているが、全然違う。あくまでも言語を使った詩や小説が芸術に近いのであって、言語そのものは数学に近い。
これは単純な話だ。
言語は論理なのだ。
ギリシャ人がLogosで論理も言語も意味したのは偶然ではない。
というのも、言語というのは共通理解がなくてならない。芸術は受け手が好き放題解釈していい。芸術には正解はない。しかし、言語はコミュニケーション手段なので、正しく伝達されねばならず、論理的でなくてはならない。
お気持ちだけを伝達するのならば、人それぞれ気持ちは違うわけで、永遠にディスコミだろう。
言語が論理的でないのなら、そもそも論文が記述できない。
論文を記述できるのは言語だけで、絵や音にはそれができない。
だから、読解力=論理把握能力=数学的な論理立ては近い関係にある。
そして、多くの言語的な行き違いの多くは、前提の条件の違いから発生するものである。言語の論理性とはいささかも関係がない。
これは数学において、その条件や違えば、とんでもない答えになりうるのと同じ(よく初等数学の文章題で、x>=0とか前提条件が付いているだろう?)だ。
たとえば、私がどんなに論理的に言語を使っても、私が犬=うるさいという条件のもと話しており、あいてが犬=かわいいという条件のもと解釈しようとしていたら、当然行き違う。
これは論理の破綻ではなく、条件が異なったために、ディスコミになったのだ。
論理性は前提条件を揃えないと破綻する。
単純に、-が足し算という前提条件と+が引き算という前提条件では、どんな数式も答えが行違うのはわかるだろう。
どんなに正しく計算しても、答えは異なる。だって、前提条件が違うからだ。
学術論文の論理性が高いのは、学術には明瞭な定義や前提が存在するからだ。
なので、数学はできるけど言語能力は低いみたいなのはおおよそ漫画の世界にしかいないと思う。