女の好みではっきりしているのは、女は弱い雄が大嫌い、ということだ。
これは本能的嫌悪感で、個人の精神では説明し得ず、「きもい」と表現される。きもさとは、すなわち弱性の異名である。
ただそれだけだと、強い雄だけの取り合いになったり、コミュニティの男女比がおかしくなるような災厄があっても、きもいきもいといって誰も弱い雄を引き取らなかったら、滅亡もあり得るので、一応、神は「ダメンズ好き」というおかしい嗜好の女を一応、用意してはいるが、これはセーフティーと考えていい。一般的ではない。
で、ここで問題になるのは、この強さ弱さの「はき違え」が「捉え違い」が女サイドで発生している、ということだ。
たとえば、女のヤンキー好きだ。
これは徹底されており、チー牛女ですら、彼女らのたしなむコンテンツに必須事項のようにヤンキーとやくざが出てくるが、その逆、チー牛コンテンツにヤンキー女は稀である(個人的に、赤灯えれじいは好き)。
暴力性というのは実際のところ、強弱とは無関係だ。
弱い犬ほどよく吠えるではないが、メンタルが脆弱なやつほど暴力に訴える、というのはよくある。マシンガンケリーの話もある。
弱さの隠蔽のための暴力性の発露である。
なので、暴力性は強弱とは一切関係ないのだが、この暴力性を強さと勘違いする雌が一定数おり、これが女のヤンキー好きにつながる。
もちろん、明らかに物理的に強そう(200cm150kg)みたいなやつなら、まあどう考えても強いだろうし、野生の時代においては、明らかにパートナーにふさわしいのでいいのだが、ヒョロヒョロイキリ男をすぐ好きになるような女は、まあ、だいたいこの手の捉え違いをしている。
女はその暴力がどこからきているのかを正しく理解できない。
一方、男性はよく理解しているので、「なんであんなくずがモテるのか?」という疑問にたどり着く。
逆方向もある。
優さしさについても強弱とは本来無関係だ。
強い奴ほど余裕があって、案外優しいものだ(余裕のない人間が他人にリソースを無償で割けるわけがないのだ)が、ここを優しさは媚び諂いの一種で弱さだと勘違いする雌がまた一定数いる。
優しさが寛容性と結びつくということを理解できず、女に優しい男とは、弱いから女にすら媚びていると解釈する。
特に女=弱者と考えている女ほどこの傾向がある。
弱者ゆえに強い雄(暴力雄)に憧れる一方、優しい雄を弱い雄と見誤る。彼らは女に取り入りたいがために、優しいのだ、と。
「性欲由来の優しさ」などがこの誤謬の一種ともいえる。
女を単なる弱者としか見ていない雄もいることがわかっていない。彼らはそもそも、弱い女など肉便器か何かだと思っているから、媚として優しくしない。
こういった経緯から、話が混乱するのだ。
女が弱い雄が死ぬほど嫌いというのはもうどうしようもない真実だが、この強い弱いの解釈が女個々人でブレッブレなのが問題なのだ。
思考する機械という古いアプローチ
AIが進化すると思っている人がいるが、そもそも「思考する機械」は古いアプローチで、現在のAIは「情報を整理するシステム」でしかない。
だから、膨大なデータを膨大な計算力で処理して学習するというとにかくパワープレイでしかない。
そこなにか何か高尚なシステムがあるわけではない。
試行回数、演算回数だけがすべてだ。
人間の脳はアナログ回路なので、そもそも演算しない。これは大きな違いだ。
こどもの学習を見ていると、ピアノの曲を10回も弾くと覚えてしまう。確かにつたないのだが、もうひける。たった10回で、だ。
現在のAIはそうはならない。
その曲に関するデータをひたすら集めて学習し、完璧に近い演奏をする。
しかし、別の曲は弾けないし、オリジナルをつくるときは、また膨大なデータを参照し、重みづけやランダム性でもって出力する。
こどものオリジナル曲はそうではない。2,3曲しかひけないくても、自由にオリジナルを作れる。
このときのAIの学習量は膨大だ。
人間の一生ではまかなえないほどのデータが処理されるのだ。
将棋AIもそうだろう。
いくら棋士でも100万局を一生で対局できるわけもないが、AIは数億という試行回数をこなす。逆に言えば、それだけやってやっと人間に近づける。
そもそも、現在のパワープレイ型のAIは「近似値」をもとめるデジタルの特性に由来している。
だから、AIはいつか、感動や美を「近似」する。膨大なデータから近似値を割り出す。
そもそもデジタルはすべて近似値でしかない。レコードは連続した値だが、CDは近似値だ。
フイルム写真はドットもピクセルもない。粒子はあるが、量子化できない。
しかし、デジタル写真はピクセルによって管理されており、量子化されている。だから拡大するとドットの集まりでしかない。
しかし、画素数が膨大になると、もはや人体ではそのドットを認識できない。そう。現実と写真はイコールになるのだ。
逆に言えば、フイルム写真はどこまでいっても現実とイコールにならない。
現在のAIは思考ではなく、膨大なデータのパターンマッチで成り立っている。
おそらく、70億人の人間の365日の行動記録、健康記録、脳電位情報、などがあれば、「人間とは何か」をAIは得る。
そう、近似値だ。そして、この「近似値の人間」はもはや人間に非人間と区別することを困難にする。
パワープレイ型のAIはこのように「猿真似」は得意だ。
かつて目指されたAIというのは知能の再現であって、人間の再現ではなかった。
つまり、「人間と同じように思考し、行動し、感情をもつが全く別の存在」というものだ。
そしてこれは膨大なデータから学習するAIは、「人間の近似値」にはなれても、「人間と同等だが別種の知性」にはなれない。
だってそんなものの学習データはないんだから!!
猿真似先がないんだから!!
フロッピーディスク
フロッピーディスクを馬鹿にする風潮があるようだが、CDが現役なんだからフロッピーが現役でもいいじゃないか。
CDは1982年に音楽用光ディスクとしてリリースされた古いメディアで、40年選手である。
むしろ、現在メジャーな3.5インチフロッピーディスクのほうがあとで1984年にソニーの規格がISO化され、ドライブ自体は1983年から製造された。
CDより1年後輩なんだよ!!
そもそも2010年頃になってもAドライブって結構民生用のデスクトップにもついてた気がするんだよ。実際、コミケでテキストファイルの入った3.5インチフロッピー配布していた人いたし。
ただそのあと急激に減退したけど、これってシリアルポートが撃滅された時期と同じだと思うんだよね。
まあ急激になくなったのは、USBメモリの価格帯がすごく安くなったことだと思う。シリアルポートが撃滅されたのもUSBの普及だしね。
デジカメも2010年頃からCFが撃滅されてSDに切り替わるんだよね。もっとも、SDカード自体もそれなりに古く、1999年に開発発表されている。
まあ、この三者って記憶媒体だけど、それぞれ、磁気、光、半導体で全部違う。
このうち、磁気を使った記憶媒体ってのが昨今は消え去った。フロッピーだけじゃない。カセットテープやVHS、HDDもそうだ。用途が近い半導体製品に置き換わった。USBメモリやSSDなんかだ。
で、あいかわらず光ディスクってのは別軸で存在する。
なんでかっていうと、光ディスクは保存用としてもつかわれるけど、配布用メディアなんだよね。一枚の製造原価が半導体よりもすこぶる安く、軽く、かさばらない。また、再生にパソコンは不要であったりする。
そもそも、CDはレコードの代替品として発明された。
レコードは原理的にはCDと近いというか、全く同じで、光を使うか、物理的な針を使うかの違いでしかない。
USBメモリが書込用ブルーレイと同じくらいの価格帯になれば、専用ドライブレスのUSBメモリに置き換わるとは思うが、まだまだ先のように思う。
それよりも光ディスクの敵はストリーミングである。なぜなら、ストリーミングも配布の形態のひとつだからだ。
復讐者
ガンダムブランドを復活させたGガンダム。
ガンダム界に新陳代謝をもたらした中興の祖ガンダムSEED。
SEED以降、20年近くこれといったヒット作がない。
水星の魔女はティーンをガンダムブランドに取り込むことを目的にしているようだ。
そうだろう。SEED世代の私も、もうまごうかたなきオッサンなのだから。
水星の魔女はとにかく脚本が良い。
キャラクターもサブキャラも魅力的に書かれている。背景はわからないが、何かあるんだろうなと。
書割としてのモブはいないのがすごい。なにせ、モブが名有り(チュチュ)と殴り合うし、作画も気合入っている。
そう。
私がすごいなと思うのは、顔芸だけではなく、キャラクターの身体の動きが感情表現の一端としてきちんと機能していることだ。
これはわりかしキャラデザが簡素なおかげで、作画コストが下がって実現できているのだろうとは思うが、アクションシーンではなく、感情表現としてキャラの身体の動きにも神経を使っているアニメはなかなかない。
たとえば、スレッタのコミュ障ポーズは有名だが、ジェターク寮の二人組ポーズ。
ガンダムってなんでもありなんだ、というGや、現代風にスタイリッシュにしたSEED。
もしかすると、水星の魔女は「ドラマとしてのガンダム」を目指しているのだろうか。
バンクを使ってまで戦闘シーンを入れたりしないのもそういうことかもしれない。戦闘シーンをカットしてでも、ドラマのほうを描こう、というわけだ。
私の嫁がジオリジンを面白いと言っていた。ガンダムなんか見ないのに、ドラマとして面白い、と。
確かに一年戦争が始まる前までのジオリジンはシャアアズナブルの貴種流離譚のドラマとして見れる。
普段ロボットプロレスを見ない人からすると、必然性のない戦闘シーンは単なる無駄にしか見えず、無法に争っているだけにしか見えないようだ。
嫁もそういっていた。
しかし、スレッタ自身は主人公ではあるが、いまのところ、水星の魔女という作品を構成する世界観の中心にはいない。むしろそれは、母親であるプロスペラのほうだ。
私はここで戦争がはじまって、無理にスレッタを話の中心に持ってこなくてもいいと思っている。
しかし、プロスペラの復讐が何らかの形で決着しないと水星の魔女というアニメは決着を見ない。
そもそも初代ですら、アムロは主人公だが、作品の世界観(ドラマ)の中心はシャアであって、シャアがキシリアを殺害することで物語は終わるのだ。
プロスペラが仮面なのはオマージュなのだろう。シャアと同じ復讐者としての。
仮面枠でありながら、フロンタルに違和感があるのは、彼が復讐者ではないからじゃないだろうか? 鉄仮面やシュバルツ、ゼクス、クルーゼは復讐者だ。
そもそも、初代、Z、逆シャアと物語の真の主人公は一貫してシャアアズナブルである。シャアアズナブルの死によって、事実上初代から続いた三部作ともいえる作品群は幕を引く(以降は蛇足にすぎないからこそ、初代~逆シャアの間にスピンオフが集中してしまう)。
こういう作品上の主人公と物語上の主人公が異なる構造はガンダムでは珍しくない。
ガンダムXでも物語の真の主人公はジャミルだ。
ガロードは作品の主人公ではあっても、ドラマのテーマとなるべき悩みや葛藤はない。ガロードには物語を通じて解決すべき課題がないのだ。
ゆえに、ジャミルが終盤ではほぼ主役といえる。
ジャミルと最初のNTの邂逅によって、NTは妄想である、というメタ的でもある解決によってジャミルは過去と決別する。新しい世代としての象徴として、ガロードとティファの存在が描かれる。そこでガンダムXという物語は終わる。
だから、どう決着をつけるのか。見どころである。
プロスペラはどう復讐にケリをつけるのか。
さて、脚本、キャラデザはよいのだが、メカニックデザインは正直、イマイチかな、と思う。動くとかっこいいことはかっこいいが、00以降の見分けのつかないモビルスーツの系譜だと思う。
私は00以降のMSの区別があまりつかない。
ガンダムシリーズはZのメカデザが最高峰なのは今も変わらないが、ターンエーやSEEDのような他のシリーズと明らかに違った雰囲気のメカデザではない。
特徴的なメカデザではなく、世界観も独特というわけではないので、新サーガを生み出すことはないだろう。
現在、宇宙世紀が最大のサーガだが、コズミックイラとアフターコロニーが続くサーガの供給源だが、他のシリーズはサーガ自体が成立していない。
宇宙世紀が圧倒的で、コズミックイラが続き、また離されてアフターコロニーと未来世紀。他はほぼなし。
まあ、本作で今のところ一番の見どころは、水星たぬきことスレッタちゃんの魅力であろう。
キャラデザ公開時には、なんぞこれと不平を買ったが、放映後はフィギュアーツが1分で売り切れる人気である。私も欲しかったよ。
引っ込み思案で大人しめだが、言いたいことは言うし、したいことはするし、結構けんかっ早いのがいい。
売られた喧嘩(決闘)は必ず買う(好意を抱いている男性でもだ!)し、MS戦とはいえ、実質対人戦みたいなものなのに一切躊躇なしに殴りに行く。
MS戦でも躊躇いがなさすぎる。
というか、グエルのケツを一話でたたいているしね。わりと手が早い。ついでにいえば、女生徒の中では背が高くわりと恵体である。これもいい。
水星は環境が劣悪らしいので、そういうところはあるのかもしれない。
かと思えば、わりとすぐ泣く。メンタルが強いわけではない。
MS戦はくそ強いし、わりと言いたいことは言うくせに、泣き虫かつ引っ込み思案のびびりかと思えば、猪突猛進的部分もあり、この辺、ミオミオやグエルがスレッタを放っておけない部分なのだろう。
私がいないとこの人はダメなの! 的な。これが無能ならエリートのミオミオやグエルがかまうはずはないのだが、パイロットとしてはめちゃくちゃ有能だからね。
天然ジゴロである。すでに約三名おちてるし。
落とされた視聴者多すぎだろ。
【水星の魔女 感想 #3】
グエルくんはカマセなんか。もう三敗目だぞ!
まあ量産機っぽいので最新鋭機に食い下がってるから強いのはわかるけども。
今作のMS戦はこれまでのガンダムと違うな、と思うのはかなりSF要素が強いことだ。
今回もそうだった。レゴリスの起こす静電気が実際にどれほどの影響力があるかわらないが、それによってグエルは敗北する。
これまでのビームの打ち合いと剣劇だけの戦闘シーン(種はバンクが多く、そういうシーンばかりだった)と比べるとかなりSF寄りで、ロボットチャンバラではない。
だから「何が起こっているのか?」がよくわらない。キャラは一応解説してくれるが、くどい解説はないので、やはりわからない。
わからないのだが、ヒカルの碁みたく、「何が何だかわからないがとにかくすごい」ということはわかるので、よくできている。ヒカルの碁もルールを知らない読者が多かったことで有名だ。
この説明しない感じも、SF小説っぽい。
水星の魔女では用語の解説はない。
いまのところ、MSが戦車の代わりに存在する世界であることやパーメットという採掘物が重要であることは語られるが、作中人物たちにとっては「常識」なので解説はほぼない。
しかし、物語の上では重要ではないからわからなくてもいいのだ。
こういった余計な解説がないからテンポがいい。
来週も楽しみというか、毎度毎度「引き」がうますぎる。え? どうなっちゃうの? ってのが。
次回もまあ、エアリエルが負けるわけないので、スレッタが勝つのはわかってるんだけど、三人目をどうやってスレッタが堕とすのか。天然ジゴロのスレッタちゃんの逆ハー構成員がプラスされるのは規定事項だと思われるので、ここが楽しみなのである。
しかし、今回エランのおかげで謎が一つ増えた。
プロローグではエリー(スレッタと別人説ありだが)はエアリエル搭乗後、GANDの模様みたいなのが表れていたが、スレッタは通常の人間らしいのである。変じゃないか?