II期決定はめでたい。
が、少し不思議に思ったのは、欧米外人に受けていたらしいことだ。
わりと情緒的な部分強めだと思うんだけどなあ、と思ったが、じゃあひるがえって、ショーシャンクの空にみたいな情緒よりのハリウッド映画や、ニューシネマパラダイスを日本人が理解しないのか? といえばするわけだし、カミュの異邦人みたいな小説も、ごりごりの情緒系なので、恋愛という人類普遍のテーマなら、うけて当然、なわけだ。
そして、中学生という設定だ。
幼稚園児の動きは欧米の子も日本の子もあまり大差がない。大人と接する際には差が出るが、子ども同士の時は何も変わらない。
しかし、大人に近づくにつれて、特定の文化様式に染まっていく。
恋愛に触れて日の浅い中学生くらいだと大人の恋愛ほど、彼我の差はないのだろう。
もっとも、大人でも全く違うとかそんなことはない。
ヨーロッパのパパ活女が「社会経験」とうそぶいていたが、全く同じことをいうわい、と思ったし、ポルノではオーイエスとかいっているが、素人のフェイスレスポルノの場合、音声だけでは日本人かガイジンか区別できないなあと思うこともある(言語をしゃべらなければ)。
オーイエスなんて、普通の白人女は言わんのだ(声を押し殺してんーんーという)。
恋愛と親子愛と友情は時空を超えて理解できるだろう、と思う。
そう思ったのがギルガメシュ叙事詩のバビロニア語版である。
バビロニア語版では、原点のシュメール語版に対して、ギルガメシュとエンキドゥは最初は敵で戦いの後に認め合って親友になるという熱い展開に改変されているのだが、この改変のせいで、大きな流れは何も変わらない(ストーリー自体はオリジナルからほとんど改変されていない)のに、まるでジャンプ掲載の漫画のような出来(他の版では召使)になっているのだ。友情というキーワードが時空を超えて理解できる。