憂邦烈士連合会@ソロプレイ

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剣道と弓道、空手と柔道を別けたもの

 未来永劫、剣道と弓道は世界競技にはなれない。正直、クムドの方が可能性すらある。

 理由は簡単で、意味不明な精神論で勝敗が決まるからだ。

 まあ早い話、審判が気に入るかどうかにかかっていて、剣道はやっていたが、正直ゴミである。

 たとえば、どんなにクリティカルヒットでも「残身がゴミ」といえば得点にならないし、弓道なんて全中でも「態度が不遜だった」という理由で負けにされた試合もあるし、ぶっちゃけ、ゴミ以外の何様でもない

 そもそも、剣道の最高段位は金を払わないとなれず、コネがないと取得もできない

 これらに対し、フェンシングは電気が流れるかどうかで明確で客観的な指標を用意している。
 また、相撲ですらビデオ判定を重視していて、行事の判定は絶対ではなく、また、ものいいがつけば、勝敗は合議で決まる。
 サッカーでは故意かどうかは全く考慮されず、試合にどれだけの影響があったかどうかでファウルの重さが決まる。だから、大げさに痛がる。

 柔道や空手が世界競技になれたのは得点を明確にしたからだ。

 剣道や弓道が美しさだの礼儀だのと意味不明なもの、審判の気分だけで決まる要素がとても強いのに対し、柔道ではマニュアル化されていて、残身のようなものもない。
 綺麗に投げられれば一本である。空手もそうで、上手く中ればどうあれ得点とされる。

 特に柔道は早くから海外進出もなされ、スポーツとして練り直された経緯があるのが大きい。空手は流派が乱立しているため、統一的な指標を作らざるを得なかったのもいい方に働いた。

 しかし、弓道や剣道はそうではない。

 そもそも弓道と弓術、剣道と剣術は似て非なるもので、柔道が柔術から派生したのと根本的に異なっている
 特に柔道の場合、加納治五郎が独裁的に創始した面も大きいだろう。

 明治維新で失業した剣術家たちが興行として始めたのが剣道の始まりである。
 剣術とは全く関係のないであった。
 まあ、この時点でクソなのがわかる。というのも、有能な武士は維新後も新政府の元で働いていたからである。なので、無能たちは見世物として剣術を披露するしかなかった

 しかし、維新後しばらくして、武徳会がつくられ、武芸と精神性を結び付けるような風潮が強まる。

 見世物であった剣道は特にそのイメージを払拭しようと徳や道といったものを重視し始める
 が、このころの剣道のイメージは悪く、学校教育に採用しようという話ができたときも、「武芸と体操(運動)は異なる」「粗野で野蛮」として退けられた。
 面白いのはこの当時の論調が運動について正しく認知していることだ。現代日本では運動とスポーツと武道がぐちゃぐちゃに認識されてしまっている。
 健康増進のための体操(運動)という概念を当時は正しく理解されていたことが興味深い

 明治の終わりになって、武道は学校教育にようやく採用される。

 戦後、撓競技というスポーツ化の機会があったにもかかわらず、これをフイにした剣道に最早、スポーツ化の芽はない

 また弓道も弓術とは全くつながっていない。
 弓術は剣術と異なり、早い段階から武芸としての価値は衰退していた
 刀は武士の魂でもあるし、近接戦闘武器であって、西南戦争でも有効だったが、弓は異なる。
 すでに戦国時代に有用性は失われており、魂でもなかった。ただ武器ではあるので、江戸時代は規制されていた

 維新後、規制は解除されたため、賭弓、つまり賭博としての弓が大繁盛した。
 武徳会の目的は「技術を目的とした武術ではなく、心の涵養を目的とした武道の創出」にあった。
 とっくの昔に技術としては意味のなくなっていた弓術にとって、弓道という新しい地平は渡りに船であった。

 剣術以上に弓術業界は衰退していたので、剣道以上に精神性を高める方向へ向かい、「的に中てる中てないは本質ではない」という行きつくところまで行ってしまったのが現在の姿だ。

 私はアーチェリーをしていたが、アーチェリーでは道具の進歩がすさまじい。
 半世紀前のオリンピックレベルの得点が大したことないのは道具のせいだ。とにかく、「中てること」を重視してきた。スポーツだからだ

 そもそも、スポーツで心の涵養ができず、武道ならできる、なんて変な話はないはずだ。

 むしろ、客観的で明確な指標がないだけに、媚び諂いを生む

 実際、剣道をやってるやつにはマジ碌な奴がいない。
 上に媚び諂い、弱いものは徹底的に攻撃するような「心」ができあがっている。私が習っていたときの指導者も半分やくざもんだった。

 一方、アーチェリーは道具の整備や扱いが競技の半分を占めているといっても過言ではない。

 扱いが上手な先輩は、成績が悪くても尊敬されていて、皆道具の手入れを頼んだりしていた。

 スポーツだがあまり体育会系ではなく(体力は大して要らないので)、団体戦だろうがなんだろうが的に当たりさえすればいいので、自分だけの戦いだ。
 誰に媚びる必要もないし、審判を気にして射形をつくる必要もないから、本当に自分との闘いで、むしろ、こっちの方が「道」ですらあると思える

 おそらくだが、江戸時代の弓術はむしろ弓道よりもアーチェリーに近かっただろう。なにせ、「中てる技術」の話だから、射形というものは決まっておらず、アーチェリーも特に決まっていない。
 確かに最適な撃ち方というのはあるが、自分流にしてもいい。中てればいい。
 が、弓道射形が決まっていて(武徳会で統一した)、この通りにしないと中てようが得点にならない

 剣道や弓道のように審判ウケを気にしないといけない武道で、「自身の心が鍛錬される」とはどだい思えない。
 心の鍛錬がしたいなら、むしろアーチェリーをお勧めする

 この点、柔道は得点基準が詰められているので、戦う相手だけ見ればいい。
 というか、そのスポーツ性と近代性、精神性において、相撲未満の剣道や弓道は本当にゴミだと思う。
 また、野球も野球道と呼んだ方がいいと思う
 審判が絶対だからだ。相撲のようにビデオ判定もないし、サッカーのように合理的なファウル基準なわけでもない。審判の指先三寸だ。

 野球が野球道なのは、かつての清原とかみたく、成績ではなく球団が気に入っているかどうかで給料が決まるという側面だ。まさに武道的
 メジャーリーグはそうなっていないし、成績もよくないのに給料高いと、球団株主やファンがキレるはずだ。まあ人気ものならいいかもしれないが、清原が国民的人気だったかというとそれも疑わしい。