メソポタミアでは膨大な契約文書、取引記録、法律文、行政文書が出土するのだが、ギリシャやローマではとんとそういう話をきかないのだ。
どうも不審である。
アッシュールなんて都市国家でまだ王のいない集会が統治していた時代のそういった文書があるのに、なんでギリシャではないのか? あるのかもしれないがなぜ話題にしないのか?
不審である。
ユーロセントリズムの気配を感じる。
哲学が素晴らしい! 芸術! 喜劇悲劇! ギリシャ文明は世界最高! そればっかり。
おかしくない? ねえ。おかしくない?
ギリシャ彫刻やパルテノン神殿がもともと彩色されており、誰がどう見てもバビロニア門とかペルシアの彩色煉瓦葺きとかと同じ臭いがすることも、あまり大っぴらには語られない。
ローマにしても、行政組織が確立するのはむしろ帝政期であって、共和制時代には行政機構はほとんどないに等しい。
これも、ローマは民主的な共和国! とかそればっかりだが、実態としては、軍人が征服した地域を勝手に支配していただけで、だからこそローマの官僚機構は驚くほど小さく、メソポタミア文明の各王国と違い、行政文書が見つからないか、あっても大したことがないのだ。
むしろ共和制時代のほうが、イタリアの外では軍政が支配していたといえる。
ローマが堅牢な国家構造を持つようになるのは、プトレマイオス朝やギリシャを支配したあとである。
これは簡単な話で、エジプトの強大な行政機構をプトレマイオスはそのまま引き継いだ(だから彼らはギリシャ人だがファラオである)が、それをアウグストゥスが接収したのは間違いない。重要なのは帝政か共和制かとかそういう話ではなく、彼がプトレマイオス朝から何を学んだか? である。
ここら辺も明らかだと思うのだが、言及しているのを見たことがない。
ギリシャもマケドニアを通じて、ペルシアの統治機構が移植されていたはずで、セレウコス朝もまた、シリアに存在したかつてのアッシリア・ペルシアの行政機構をそのまま接収した。
こういった行政機構をそのまま新支配者が使うというのは普通のことなのだが、歴史上、外聞が悪いので触れないということは多々ある。
日本でもそうだ。
いきなり明治政府が日本を支配できるだろうか?
できるわけがないのだ。
江戸幕府の高官たちはみな罷免されたが、いわゆる事務を行うような一般公務員的な旗本たちはそのまま新政府の役人にスライドするのだ。静岡藩へいってしまったものも多かったが、1/4くらいは残った。
地方でも同じだ。
私の家はいまでいう村長的なポジションだったが、日記で明治維新には触れていない。実際、統治機構はほとんどそのままスライドしたからだ。
徐々に新政府がテコいれてしていくのだが、それが完成に近づくのは明治40年くらいになってからであるので、江戸時代に現役だった役人の多くはそのまま退職を迎えたと思われる。
小藩は合併したが、県の割り付けも、おおよそ大きな藩のそれと一致する。県庁所在地はおおよそ藩の中心だったところだ。
東京そのものが江戸である。天皇を東京へ移してまで、首都機能は東京(江戸)にしなくてはならなかったのだ。なぜなら、当時の行政の中心は江戸であって、京都でも大阪でもないからだ。天皇が支配者に返り咲いたから京都にしよう! なんてできない。
それは脆弱な新政府には無理なのだ。江戸幕府の統治機構をそのまま摂取するしかない。