日本文化の最大の特徴は何か。念仏である。
浄土真宗の念仏を唱えさえすれば仏になれる、という思想これこそ日本の心である。親鸞は日本の精神構造の父だ。
他力本願を誤用とすることこそ間違いだ。
本願がすべての人の根源的願いであるなら、それに寄与せず、他力=阿弥陀仏頼みっていうのは、まことに日本的で、まさに日本中で阿弥陀仏が探されているといえる。
石川の地震にしても、どこに阿弥陀仏はいないだろうか? という念仏が日本中で唱えられているだけで、根本的な問題提起をするやつはいなかったし、首相も知事もロードマップは示さない。
阿弥陀仏を探して念仏=意味のない発言がなされているだけだ。
でも、念仏さえ唱えれば浄土へいける=責任は果たされる。
実際に何かする必要はない。他力本願こそ日本の心だから。
神頼みとの根源的な違いは、神頼みは神様次第だということだ。
願いが叶えられる保証はない。
しかし念仏は違う。唱えれば浄土へいけることになっている。
だから何もしなくてもいい。唱えればいい。だから、責任を追及されても「誠心誠意、善処する」念仏を唱えることで、はい、浄土=責任は果たされた、となる。
中国ですらこんな念仏概念はない。
日本だけだ。
韓国にだってない。
世界標準は神頼みだ。運を天に任せるのだ。
中国では古くから天の思想があったが、日本にはない。人事を尽くして天命を待つのは中国人の発想にすぎない。
仏教自体はインド由来だが、日本仏教は魔改造されすぎて原形をとどめておらず、ブッダを崇拝するわけでも仏典に書かれたことを遂行するわけでもない。
古くからある日本の心が仏教というガワを着て現れたのが日本の仏教の正体である。
さて、神は仏とは違う。
仏は人を救済するためだけに存在するものだが、神はそうではない。
だから、念仏は唱えた! なのになんで助けないんだ! 他力本願なんだから、おまえが俺を助けるんだろうが! とわめくやつが日本中にいるだろう。
世界ではそうはならない。
日本では助けないやつ=阿弥陀仏が悪いことになるが、神頼みで助からなかったなら、それはそういう「運命」だったのだ。
なにせ、基本は自力救済だからだ。
日本人が行政組織を異様に信頼しているのもここだろう。行政組織は阿弥陀仏なのだ。
しかし、世界の行政組織は神であるので、住民に試練をかすこともあるし、理不尽な行動に出るし、神頼みは無効のこともある。たまに生け贄も捧げる必要があるだろう。
無償(念仏は1円にもならない)で、100%助けてくれる阿弥陀仏は日本にしかいない。というか、日本人のあたまの中にしかいない。
だから世界では助けてくれた人にお礼としてお金を渡すのが常識だが、日本では救済は無償でなくてはならず、金銭を要求すると、極悪人扱いになる(助けなかった人以下の扱いになる。イミフだが強盗よりもひどい扱いを受けるだろう)。
ありがとうという念仏で十分のはずだからだ。
だから、日本で革命がないのも、こんなに経済が悪くなっても誰も騒がないのも、みんな家で岸田はクソと念仏を唱えれば、他力(ほかの国民)がどうにかしてくれると思っているからだ。
金(実弾)は撃ちたくない。卑しいやつらだ。私も含め。