またひとつ、自己責任論者(自分以外が責任取れ論者)が喜ぶ単語が生まれそうだ。
自粛、である。
本来、自粛というのは、「自主的に控えること」ということだが、最近、自粛を強制や要請の意味で使う人が増えた。
どう考えても、外出自粛うんたらのコロナのせいだ。
これはよくない傾向だ。
というのも、自粛というのは自己責任論の極北だからだ。
国は決して、強制や命令はしない。
なぜならしてしまうと、命令を出した側、強制させた側に責任が生じるからで、要請なら「相手に受ける権利がある」ので「要請はしたが受け入れられなかった」と言い逃れができる。これはまだマシ。
で、自粛の場合は最悪で、「自粛」とは言ったが、自粛しないでコロナに感染した場合は、そいつが悪い。自粛して感染した場合も、そいつが悪い。なぜなら、自粛は「お願い」しただけであって、「強制はしてない」からだ。
最悪である。
自粛は「言っただけ」なのだ。従おうが従うまいが、そもそも自粛は命令でも強制でもないから、「従う」という概念がない。「言っただけ」のことに「勝手に従っただけ」という言い逃れが横行することうけあいである。
だって、自主的に控えることなのだ。
この「自主的」と言う部分を都合よく解釈する。
これからも〇〇自粛という、「事実上の強制」が行われ、しかし、何かあったときは「辞書通り」の解釈(自主的に控えること)をして、責任を放棄する。
そんな社会がやってきそうだ。
ボランティアという単語が同じ経過をたどった。
日本では、「一般的」には「無償労働」の意味である。
しかし、原義にはお金うんぬんの定義はない。意味もない。
なので、普段はボランティアは無償なのに、「お友達ボランティア」には、突然、原義に忠実になり、多額の補助金が出たりする。
ボランティア自体も「自主性」が原義では大事だが、日本では失われた。
自粛も同じ。「自主性」の意味が消え、ボランティアと同じく、「事実上の強制」(参加しないとペナがある)となるのだろう。