憂邦烈士連合会@ソロプレイ

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自粛の意味

 またひとつ、自己責任論者(自分以外が責任取れ論者)が喜ぶ単語が生まれそうだ。

 自粛、である。

 

 本来、自粛というのは、「自主的に控えること」ということだが、最近、自粛を強制や要請の意味で使う人が増えた。
 どう考えても、外出自粛うんたらのコロナのせいだ。
 これはよくない傾向だ。

 

 というのも、自粛というのは自己責任論の極北だからだ。

 

 国は決して、強制や命令はしない。
 なぜならしてしまうと、命令を出した側、強制させた側に責任が生じるからで、要請なら「相手に受ける権利がある」ので「要請はしたが受け入れられなかった」と言い逃れができる。これはまだマシ。

 

 で、自粛の場合は最悪で、「自粛」とは言ったが、自粛しないでコロナに感染した場合は、そいつが悪い。自粛して感染した場合も、そいつが悪い。なぜなら、自粛は「お願い」しただけであって、「強制はしてない」からだ。


 最悪である。


 自粛は「言っただけ」なのだ。従おうが従うまいが、そもそも自粛は命令でも強制でもないから、「従う」という概念がない。「言っただけ」のことに「勝手に従っただけ」という言い逃れが横行することうけあいである。

 

 だって、自主的に控えることなのだ。
 この「自主的」と言う部分を都合よく解釈する。

 

 これからも〇〇自粛という、「事実上の強制」が行われ、しかし、何かあったときは「辞書通り」の解釈(自主的に控えること)をして、責任を放棄する。
 そんな社会がやってきそうだ。

 

 ボランティアという単語が同じ経過をたどった。
 日本では、「一般的」には「無償労働」の意味である。
 しかし、原義にはお金うんぬんの定義はない。意味もない。
 なので、普段はボランティアは無償なのに、「お友達ボランティア」には、突然、原義に忠実になり、多額の補助金が出たりする。

 

 ボランティア自体も「自主性」が原義では大事だが、日本では失われた。
 自粛も同じ。「自主性」の意味が消え、ボランティアと同じく、「事実上の強制」(参加しないとペナがある)となるのだろう。

アフガンとイスラム原理主義

 アフガニスタンの惨状が宗教によるもの、というのは間違いだ。宗教音痴の日本人らしい意見と言える。また欧米の反イスラム思想に毒されてもいる。

 

 タリバンというのは原理主義者だ。

 よくないのは「宗教」ではなく、「原理主義」である。共産主義にせよ、右翼思想にせよ、原理主義は碌でもない。

 

 キリスト教にも原理主義者はいて、カトリックでは堕胎を禁止していることから、中絶医や産婦人科医の爆殺をたまにしている。何もイスラムに限ったことではない。仏教徒でも、反戦運動焼身自殺をとげた僧侶(もちろん日本人僧侶にそんなのはいない。即身仏の時代で終わった)もいたが、これも一種の原理主義的行動だろう。

 

 かつてキリスト教にも原理主義の嵐が吹き荒れた。ルターの宗教改革である。

 多分ドイツの歴史観の影響を受けているのだろうが、ルターを聖人と日本人は思っている。が、偉人は偉人かもしれないが、彼の思想は徹底した原理主義(聖書第一主義で聖職者の存在を認めないレベル)であった。

 

 しかし、実際のところ、対カトリックに対する処刑や戦争でたくさんの死者が出たが、ルターの原理主義は継承されず(バカバカしいからだろう)、「反カトリックとしてのプロテスタント」が成立するのである。
 単純にキリスト教原理主義は300年ほどまえに終わったが、イスラムは現在進行形であるにすぎない(もしルターが現代にいたらカトリック教会が次々に爆破されて、国際指名手配されるに違いない)。

 これはキリスト教に比べイスラム教が800年ほど新しいことも関係するだろう。

 

 もっとも、何よりも間違っているのは、タリバンの言い分が間違っていることである。タリバンの思想でもっとも迷惑をこうむるのは「正しくイスラムに帰依している人々」である。
 彼らのせいで、イスラム教への誤解が広まるのだから、いい迷惑だ。

 

 さて、イスラム=女性蔑視というのがそもそも間違っている。元来、イスラム教は他の宗教(キリスト教、仏教、神道など)に比べ、どっちかというと女性救済的な立場にあった。

 

 これはムハンマド自身の経歴も関係するだろう。


 ムハンマドの嫁は姉さん女房であった。苦労人だったムハンマドの才能を認めた裕福な家の彼女が彼と結婚したのであって、逆ではない。また、アッラーの啓示を受けたムハンマドは、自分が気が狂ったのだ、と最初は思った。
 しかし、それは神の啓示、あなたはキチガイではなく、預言者と言って慰めたのが、この嫁である。最初の信者でもある。

 

 さらにムハンマドは商人だったので、他宗教と違い、たいていのことに根拠がある。

 

 豚が不浄なのは醜いからではなく、寄生虫が多いからだし、一夫多妻なのは、当時のアラビアは戦争ばかりで寡婦が多かったので、金持は面倒を見ろ、ということだし、チャドルを着ろ、というのも、強盗から身を守るために体の線を出して欲情させないようにしろ、ということだ。
 酒が禁止なのも酒は諍いのもとだからだ。

 

 さらに、後年のイスラム指導者たちは、神は唯一アッラーのみということは、仏教の神々もすべてアッラーの別の姿であるという解釈(とんでもねえ解釈だ)で、仏教徒を容認しさえした。バーミヤンの石窟が1000年間、破壊されていなかったのはそういうことだ。
 酒は禁止だが、酒をお茶と偽る行為も横行した。

 

 元来、十字軍を組織したのがイスラム側ではなくキリスト教側であったことが何よりの証拠だろうが、イスラム教はわりかし寛容であった。

 寛容でないなら、初期の科学や音楽理論イスラム圏で生まれるはずがない。

 

 イスラム教が変質したのは19世紀に入ってからだ。急に原理主義の色彩を強めた。これはイスラムだけではなく、ユダヤ教もそうで、シオニズムという原理主義の権化(この世で最も恐ろしい原理主義こそシオニズムだ)が生まれた。

 

 理由は簡単だ。

 19世紀に度し難いほどに西ヨーロッパ+ロシアと、それ以外の世界の格差が広がったからだ。

世界の肯定と否定

 あらゆる物語は、その結末をきちんと決めるなら、「世界を否定する」か「世界を肯定するか」の二択しかない。
 これはシリアスな物語は、そもそも登場人物の内実の解決をテーマにしているからだ。そして、フィクションである限り、この呪縛から逃れられない。

 

 もちろん第三の選択肢として、「投げっぱなしジャーマン」というのがあるが、これはクリエイターとしての逃げだろう。

 

 もちろんこれはシリアスな物語だけに該当し、ギャグマンガは該当しない。
 ゆえに、歳を重ねるとギャグマンガは読めるがシリアスな物語が読めなくなるのは、結局、消化不良ではない結末を望むとハッピーエンドしかないことがわかるからだ。

 

 トルストイアンナ・カレーニナで「すべての幸福な家庭は似ているが、不幸な家庭は多様な理由による」みたいなことを言っているが、その通りで、ハッピーエンドは大なり小なり、大差がなく、デジャヴュに襲われるし、歳をとってまで、多様性はあるとはいえ、バッドエンドを見るためだけに何十巻も漫画を読むという体力はない。

 

 あのエヴァですら、第三の選択肢を捨て、ケリをつけるにはあの方法しかなかった。とってつけたようなハッピーエンドしかなかった。
 原理上、庵野秀明が天才であっても、ハッピーエンドで多様性を出すことは無理なのだ。

 

 その点、ノンフィクションは面白い。


 ノンフィクションは物語と違い、ストーリーを解決、決算する必要はどこにもない。ストーリーの必要性がない。
 言ってしまえば、ノンフィクションは物語の「解決」を望むものではなく、「自分以外の物語」を盗み見るものだ。これは解決を望まないわけだから、どんな幕引きでもいい。投げっぱなしでもいいし、それは投げっぱなしとは言われない。

人権派弁護団がつきそう

 人権派弁護団というのは、足利事件とか光市母子殺害事件とか、まあ、素人というか「健常な人間」から見れば、異常者による異常者の異常な犯行に、なぜか、「人権」の輝きを見る「異常者」集団であるが、今回の硫酸事件の花森容疑者も、裁判が長引きそうだな、と思った。間違いなく、弁護団がつく。

 

 京アニの青葉も付きそうだと思ったが、彼は存外、普通の人間で、「単なる怨恨」だったので、事件そのものの死者は多いが、犯罪実行者としては普通だった。なので、精神鑑定も駄目そうだし、人権派はさして騒いでいない。

 

 しかし、今回の花森の学生時代のエピソードを見ると、サイコパス発達障害を感じる。これは人権派が大好きな案件じゃないだろうか。まーた胸糞悪い被害者叩きを見せられるのかと思うと、なんかいたたまれない気がするが、実際どうなるかはわからない。私が思っただけだ。

女子甲子園

 数年前まで女子はマウンドにあがるなとかキチガイなことを高野連は言っていた気がするが、女子野球の決勝戦を甲子園でしたようである。

 

 一見イミフ見えるが、保守的な人間というのは実は「信念がない」(信念がないからこそ、旧弊を脳死で唱える)ので、風当りが強いから仕方なく開催したのだろう(張本が絶賛したらしいが、絶対おまえ反対派だっただろ)。

 

 他にもいくつか理由は考えられる。

 

 1.野球人気の低迷から女子にも門戸を開き人気回復の狙い(以前から女子野球モノというのは一つのジャンルとして漫画・アニメに存在するほどメジャーだったので観客の需要は見込める)。将来的には巨大な女子リーグをつくりたいのだろうが、いまのところ女子リーグは人気が出そうもない。

 

 2.女子野球に同情的だった竹中事務局長が死んだこと。2019年に死んだので彼への手向けに2020年にする予定だったのだろうが、コロナで2021年に繰り越しになった。2022年もするのだろうか? しない可能性があると思う。

 

 3.女子甲子園を訴えた選手である島野愛友利選手が男子リーグ出身だったこと。とくに中学時代に優勝投手になっている。つまり、高野連の論理で彼女は「男子並み」だから、OKという理屈。女子としてではなく、「男子並み」の選手がいるからOKという理屈だ。

コロナの本当の怖さ

 「病気」としてのコロナは何も怖くない。

 せいぜい、ちょっと強い風邪、程度のものだ。

 

 私が怖いのは「社会現象」としてのコロナである。

 

 たとえば、コロナに罹患したことでいじめられる。仕事を首になる。村八分になる。

 ワクチン接種をしないせいで非国民よばわりされる。公共施設に入れなくなる。

 

 そういうコロナを起因して起こる「人間の行い」がとにかく怖い。

 

 そもそもアジア人は耐性があるので、コロナではほとんど死なない。交通事故や熱中症、風呂場での転倒の方がよっぽど怖い。病気は運だが、交通事故や熱中症には故意や不注意がかなり含まれているからだ。

 コロナで死んでも、それは運の話だ。

 

 こういうと連日TVで芸能人が罹患して大騒ぎじゃないか。と言う人がある。

 じゃあ、いままでTVで難病の人の話を24時間TV以外で見るか? と言えば見ないのである。「コロナ」だから大騒ぎしているのだ。これはコロナの病原としてではなく、社会性のものだ。

 

 熱中症は基本的には夏季に限定され、多い年は2000人近くが死ぬが、いちいち報道しないであろう。

 

 戦時中と同じような、集団ヒステリーみたいになるのが怖い。

1円で出品するな

 ヤフオクで500件以上の取引をしてきたが、トラブルがあったのは「1円で落札したやつ」で、率は100%だ。

 

 案外カメラのような高額の落札をしたやつほど文句を言わず、1円出品を1円で落札したやつほど、態度がでかく、お客様は神様だといわんばかりである。

 

 こっちは素人だし、なんで1円のものの対価として、そんな下手(したて)にでないといけないのか? あまつさえ、少し気に入らないことがあると悪い評価までつけてくる。

 

 格安店ほどクレーマーが多いのと同じだろう(例外は定価売り基本のコンビニだけ)。

 

 だから1円出品はするな。

 値札がクレーマー除けになるのだ。最低でも100円スタートが望ましい。

 

 貧乏人は心も卑しい。余裕がないからである。